イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

永遠と選択の問題

 
 話題が愛の関係に及んだので、この機会に次の点について考えておくことにします。
 

 「私たちの生は、別れの連続にほかならない。」
 

 わたしと彼とは、一体どこですれ違ってしまったのだろう。互いに友でありつづけることなど当たり前だと思っていたのに、気がついてみると、別の道を歩んだまま、声をかけ合うことすらしなくなっていた。
 

 また、わたしと彼女とのあいだに結ばれたあの約束は、一体どこに行ってしまったのか。おそらくは、私たちは永遠という言葉の意味を軽く見すぎていたことの結果を、身をもって受け取ったのではなかったか。
 

 街から街へ、人から人へと渡り歩く私たちの人生のうちで、変わらないものを守りつづけることは、本当に難しい。こうしてひとは年を経るにつれて、大げさな言葉を用いるのを思いとどまることを次第に覚えてゆきます。
 

 しかし、もしも永遠と呼びうるような何かに触れることが、そこにとどまることができないとしたら、私たちの生にどんな意味があるのだろうか。わたしがこれまでに交わしたあんなにも多くの約束は、ただ時とともに忘れ去られてゆくだけなのだろうか。
 
 
 
愛 約束 関係 哲学 キルケゴール
 
 

 ある人は言う。何ごとも、過ぎ去るくらいがちょうどいいではないかと。生まれてきたこと自体が夢のようなものにすぎないのだから、その時々の瞬間をただ楽しむだけで十分ではないかと。
 

 永遠をあきらめるというのも、ひとつの選択です。筆者は哲学者として、生きることとは永遠性の探求にほかならないという立場を取りつづけるつもりですが、これとは別の見方をとる哲学の立場も、もちろんありえます。
 

 「問題は判定することではなくて、選択することである。」このようなものの見方を現代において峻烈に提示したのはキルケゴールであるといえますが(客観的真理に対する主体的真理)、正解がないにも関わらず選びとらなければならない類の問いが存在するということは、哲学的にみても重要な論点なのではないかと思われます。