イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

耳をすますことについて

 
 「哲学の務めのひとつは、人間に立ち止まることを教えることにあるのではないか。」
 

 存在するという語についていえば、この語のうちにはらまれている底知れない深みのうちに分け入ってゆくためには、日常のあわただしい流れから身を引き離してみる必要があるのではないか。
 
 
 たとえば、耳をすましてみると、雨が地面を打つ音が聞こえてくる。その音を包みこむ静けさのさらに奥のほうからは、かすかに虫の鳴く声が……。
 

 こうした音のそれぞれは、それ自身に特有なリズムを持っており、時間という音楽を奏でつづけています。けれども、生の奔流から離れて耳そのものになろうと努めないかぎり、私たちがこの音楽の存在に出会うことはないでしょう。
 

 哲学とは、自分自身で考えたいように考えることではなく、むしろ、存在の存在することに耳をすますことのうちにあるのではないか。聞くというこの行為のうちには、おそらく、思考がそこから学びとらなければならない秘密が宿っているように思われる……。
 
 
 
哲学 ミヒャエル・エンデ モモ 他者 存在 ディオニシオス トマス・アクィナス ハイデッガー レヴィナス
 
 

 ミヒャエル・エンデはモモというあの忘れがたい女の子について語りながら、本当の意味でひとの話を聞くことができる人は稀なのだという意味のことを言っていますが、このことは、人間がつねに思い起こすべき最も重要なことのひとつであるように思われます。
 

 私たちは他者たちが語ることを、聞いている自分自身が聞きたいようにしか聞いていないのではないだろうか。別の世界からの手紙であるはずの他者たちの言葉を、私たちはいつも聞き逃す……。
 

 哲学史についていえば、ある哲学者がほかの哲学者の言ったことにどのように耳を傾けたのかを知ることは、学ぶことが本当に多いといえるのではないか。
 

 ディオニシオスの否に耳をすますトマス・アクィナスハイデッガーの書物の言葉に耳をそばだてつづけるレヴィナスをはじめ、存在という言葉についても、この言葉をめぐる聴取の歴史について考えてみる必要があるかもしれません。存在の問題については、これからも折に触れて考えつづけてゆくことにしたいと思います。