ところで、他者をめぐる問題には、わたしとあなたという二者関係を越え出ずにはいない側面があるといえるのではないか。
「世界には、わたしの知らないところで苦しんでいる人々が無数に存在する。」
わたしとあなたということであれば、対話することが、互いの苦しみからの出口を見出す糸口になりえます。しかし、わたし(第一人称)でもあなた(第二人称)でもない、第三人称の他者たちについてはどうだろうか。
たとえば、この国においては、鬱病をはじめとするメンタルヘルスの問題で苦しんでいる人の数が、かつてないほどに深刻なしかたで増加しつつあります。また、地球全体にまで視点を広げるならば、構造的な貧困や病気などで苦しんでいる人の数は想像にあまるものがあります。
こうした「見知らぬ隣人」たちの痛みについては、私たちはどう考えたらよいのだろうか。これから、他者をめぐるこの倫理上の問題について哲学の立場から検討してみることにします。
まず最初に気づかされるのは、この問題は、ふだんはその存在にすら思い至らないというくらいに忘却してしまいがちな問題であるということです。
わたしは、わたしの人生を生きることで忙しい。申し訳ないけれど、わたしには、自分の知らない他者のことを考えている時間がない……。
また、そうでなくても、わたしにできるのはただ、自分の周りにいる見知った人々と共に生きてゆくことくらいなのではないか。どちらにしろ、わたしが関わりを持つことのできる人の数は、本当にわずかなものでしかないのだから……。
こうしたつぶやきにも関わらず、見知らぬ隣人の問題が私たちの心のある部分を締めつけずにはいないということは、否定しがたいように思われます。この感覚が私たちをどこに導くのか、これから少し探ってみることにします。