考察をはじめるにあたって、まずは次の点を確認しておくことにします。
「苦しんでいる他者は、現実に存在する。」
わたしもあなたも知らないところで、苦しんでいる人がいるのではないか。このように言った時には、当然、次のような返答もありうるものと思われます。
「確かに、そうかもしれない。けれども、頭の中でそんな抽象的なことばかり考えていてもしょうがないのではないか。」
理屈ばかり並べていても、それだけで終わるならば仕方がないのは確かです。しかし、この件については、想像力を用いることも重要なのではないか。
前回にも論じたように、苦しんでいる見知らぬ隣人は、現実に存在します。かりに、もしもそのような人が本当に一人も存在しない世界が来れば、その時にこそ「歴史の終わり」が到来したといえるのかもしれません。
けれども、現実にはいうまでもなく、世界の状況は「歴史の終わり」が来たとはとても言いがたい状況にあります。見知らぬ隣人についての想像をいくらめぐらしたとしても、それが杞憂に終わる可能性は低そうです。
筆者が、人間には折に触れて見知らぬ隣人の苦しみを想像することが必要なのではないかと考えるのは、おそらく、そうでもしないと人間は他者の苦しみを存在しないと思いこんでしまう傾向を持っているのではないかと思うからです。
「私たちは、平和な日常を生きている。世の中というのはこういうものだ。」
そのように考えるとすると、人間は自分の平穏を享受するのみで、自分自身のうちに(家族のうちに、同国人のうちに)閉じこもってしまうことになるでしょう。その結果、その気になれば助けの手を差し出せたはずの隣人のことを、半ば無意識のうちに見捨てていたということにもなりかねません。
想像力は、はたして人間の行動を実際に変える力になりうるのだろうか。理屈だけで終わってしまうのは哲学者の悪い癖ですが、この探求が筆者自身の実人生の変化につながる必要があることを思い起こしつつ、先に進んでみることにします。