今回の探求で検討したいのは、次のような言明に他なりません。
コナトゥスの自己表明:
わたしは、わたしに生まれてよかった。
この家族に生まれてよかった。
この国に生まれてよかった。
まず最初に確認しておきたいのは、こうした言明のうちにはもちろん、健全な感覚も含まれているということです。けれども、この言明が自己性への閉鎖の回路を作り出すときには、それは倫理上の問題を引き起こさずにはいないのではないか。
自己生への閉鎖言明: ゆえに、
わたしには、他の人はどうでもいい。
社会のことはどうでもいい。
他の国の人々はどうでもいい。
ところで、すでに一度論じたように、現代の先進国においては、他者と関わることなく生活を享受するためのインフラが急速に整いつつあります。
状況は今や、他者への渇望すらもヴァーチャル・リアリティで補えるかのようです。誰もが自己完結しつつ生きることができるように見える世界で、はたして他者を求めることが必要であるといえるのだろうか……。
確かに、一人一人の自由意志が尊重されるべきであるとするならば、「わたしは他者を求めない」という生き方も、もちろん尊重されるべきでしょう。しかし、この探求の出発点であった次のようなイデーについて考えてみるならばどうだろうか。
「世界には、わたしとあなたが知らないところで苦しんでいる他者が、現実に存在しているのではないか。」
このことを考えたときには、人はもう「わたしには他人のことはどうでもいい」とは無条件に言えなくなってくるのではないか。見知らぬ隣人の痛みを想像することが、自己性への閉鎖の回路の存続を揺り動かさずにはいないとしたら……。
スピノザにおいて典型的なしかたで表明されている「存在することへの努力conatus essendi」の倫理的な妥当性が、ここでは問われています。それと同時に、この探求は、エゴイズムとニヒリズムの関係という既出の主題を、別のしかたで反復することにもつながっているのではないかと思われます。