ここでは、二択の状況を二組提示することで議論を整理してみることにします。
渇望をめぐる二択:
1.わたしは、他者を求める。
2.わたしは、他者を求めない。
1.わたしは、他者を求める。
2.わたしは、他者を求めない。
この二択のうちのどちらを選ぶかは、それぞれの主体の自由に任されています。たとえば、筆者自身は(自分自身も含めて、人間性には絶望しつつも)1のスタンスを取りますが、「もう人間はたくさんだ」ということで2を選択する道も、当然ありうるでしょう。
しかし、次の二択については、どちらを取るのも自由だとは言えないのではないか。
倫理をめぐる二択:
A.わたしは、他者の苦しみを放置しない。
B.わたしは、他者が苦しもうがどうでもいい。
思想上はともかく、実践上ですべての人がBを選択するとなると、人間の世界は崩壊します。また、そこまで行かなくとも、ここには、「自分はBの方を選択する」とは表立って宣言することのできない力が働いていると言わざるをえないのではないだろうか……。
渇望の二択については人それぞれでも、倫理の二択の方はそういうわけにはゆかないのではないか。たとえ他者を必要としないで生きてゆける世界が到来しつつあるとしても、苦しんでいる他者を見捨てることはするべきではないのではないかというのが、この議論における筆者の主張になります。
人間を愛せよ、と誰かに強制することはできない。というよりも、そもそも愛は強制されるならば、もはや愛ではなくなってしまうだろうから、この要求はその根底にひとつの矛盾をはらんでいると言えるだろう。
しかし、他者が苦しんでいる時に何かできることをするというのは、人間の義務であると言えるのではないだろうか。現代においては、義務という言葉は人間の思考にとっていくぶんか縁遠いものになっているように思われますが、引きつづきこの点を検討してみることにします。