ここで少し話題はそれますが、次の点について論じておくことにしたいと思います。
「現代の人間は、倫理的なエゴイストとして生きるという可能性にさらされているのではないか。」
倫理的なエゴイストという言葉で、ここでは、何が正しいかを知ってはいても、そのことが自分の行動に結びついてゆかない人間のことを指すことにします。
倫理的なエゴイストは、この世界が、密かに振るわれる暴力や見えない苦しみで満ちていることを知っています。それでもこの人は、自分がそうしたものに対して何事かをなしうるとは思っておらず、また、実際にも行動しません。
倫理的なエゴイストは、不公正と愚かさについて語り、世の中に蔓延すエゴイズムに憤ります。しかし、他でもないこの人自身が、行為においては一人のエゴイストとして生きています。
情報があふれている現代という時代には、認識と行動とを隔てる距離は、ほとんど無限にも思えます。消費しつつ享受するだけの人生を生きることの空しさを知ってはいても、そうではない別の生き方の姿は、一向に見えてこない……。
ここで上に挙げたような人物像を描きたかったのは、筆者自身がこの倫理的なエゴイストとして生きているという感覚があるからです。けれども、考えてみると、この病を完全に逃れているという人は、この世にはほとんどいないのではないかという気もします。
現代の人間は、知りすぎるということの弊害を身をもって生きています。手元にあるスマートフォンやタブレットでどんな情報でも手に入れることができても、人間を受け入れることはできず、身近な他者とさえも親しく交わることができない。
このことに加えて、現代の先進国に生きる人間は、仮に何か行為したいと願うことがあったとしても、世界には労働とエンターテイメントしか存在しないように見えるという状況に置かれてもいます。倫理的に生きるという道が、ラクダを針の穴に通すというくらいに難しいということは否定しがたいように思われます。