私たちの探求は、倫理上の問題が存在の問いと重なる地点に至りました。
「倫理は、脱-現前の運動を人間に要求する。」
その場にいること、現れていること、そして、そのようなものとして知られていること。「見知らぬ他者がどこかで苦しんでいるのではないか」という問いは、こうした現前のモメントの外に出てゆくというベクトルをはらんでいます。
人間の世界は、現前によってしるしづけられた世界です。可視的なものが「存在とは、知覚されることである」という定式を打ち立てる一方で、そこから排除された人々や、排除する暴力のほうは、見えないところへと追いやられてゆくことになる。
もしも倫理なるものがありうるとすれば、それは人間に、こうした不可視の暗部の方へと向かう脱中心化の運動を要求するはずです。
おそらく、そこで主体であるわたしが出会うことになる傷は、わたしの想像をはるかに超えていることでしょう。わたしはそこで、世界が抱え込まなければならない傷の深さによって、その主体性の根底から揺さぶられることになることと思われます。
わたしは、自分が傷を負ったと思っていた。しかし、わたしはその脱中心化の彷徨のうちで、痛みとは何かということをはじめて知るだろう。一つの夜を乗り越えるために、世界がどれほどの苦しみを耐えなければならないかを知るだろう。
筆者の場合、こうした脱中心化の運動の線を最後までたどる強さも勇気も今のところ持ち合わせていないので、後ろめたさが残ります。この問題を哲学で追いつづけつつ、まずは身近なところから始めてゆこうとは思っていますが、自分の卑怯さには弁解のしようもありません。
しかし、この後ろめたさの感情、このサバイバーズギルトは、人間が人間として生きてゆくかぎりは捨ててはいけないものでもあるのかもしれない。何もしないことの口実にすべきではないとしても、とりあえず、今回の探求では、サバイバーズギルトの普遍性を結論の一つとしておくことにします。