前回までで見知らぬ他者をめぐる考察がひと段落したので、ここで別の角度から問いを提起することにします。
「たとえわたしが倫理的に生きることを望むとしても、幸福の原理そのものを放棄することはできないのではないか。」
この不可能性はおそらく生きているかぎり回避することのできない、必然的なものです。人間であるかぎり、わたしは、幸福を求め不幸を避けるという原理とは縁を切ることができません。
極端なケースにはなりますが、たとえ他者のために命を捨てることがあるとしても、「他者のためにここで命を捨てるのがよい生き方だ」という認識が必要になってきます。この場合、わたしは依然として、倫理的な行為のうちでわたし自身の生のよさを追い求めているということになるのではないか。
このこと自体はもちろん、非難すべきエゴイズムであるというわけではなく、むしろ事柄上の必然に属しているにすぎません。したがって、たとえ倫理的に生きることを望むとしても、わたしはわたし自身の幸福の追求をやめることはできないし、また、そのこと自体は気に病む必要はないということになってきそうです。
難しいのは、だからと言って、「わたしは幸福になっていいのだ!」と完全に開き直ってしまうと、前に取り上げた問題が舞い戻ってしまうことです(この点については、「幸福であることの残酷さ」という記事をもしよければ参照してください)。
幸福であることを罪だと思いつめるのも不健全な気がするし、その一方で、倫理はわたしがわたし自身の幸福のうちに閉じこもることをよしとしない。そう考えてみると、倫理と幸福の関係は、一筋縄ではゆかないものであることが身にしみてきます。
たとえば、筆者はこの記事を書く前に晴れた日の散歩を楽しんできましたが、それを罪だとしてしまうと、倫理的というよりは病的であると言わざるをえないのではないか。しかし……。今日はもう一度外を歩く機会があるので、この点をもう少し考えてみることにします。