前回に用いた「人でなし」という語については、もう少し掘り下げて考えてみる必要がありそうです。
裁きの宣告:
そんなことをする(言う)なんて、あなたは人でなしだ。
人でなしとは非–人間を、あるいは人間以下の存在を指し示す言葉です。この表現のうちにはまさしく、倫理的糾弾なるものの激烈さが示されているのではないか。
すでに論じたように、倫理的な過失は、それを犯してしまった当人の社会空間における地位を、いちじるしく低めます。それは時に、その人を社会空間から追放してしまうほどの勢いにすら至りかねません。
人でなし宣告を受けた人は、その件についての、あるいは一切の発言権を奪われます。彼あるいは彼女には弁明することすら許されないわけですが、それはなぜかというと、彼あるいは彼女は今や、言葉を発する権利をもつ「まともな人間」とはみなされなくなったからです。
人でなしには口をきくことすら許されず、何か言葉を発するとすれば、それはもはや全面的な謝罪の言葉でしかない。その上、人でなしとされた人間には、謝罪したからといって赦される保証もありません。
弁明の権利を奪われ、無条件に糾弾可能となった「人でなし」という形象は、対話や議論の場においても出現する可能性があります。
1. 議論の通常状態
2. 議論の炎上状態
2はいわゆる例外状態に属するといえますが、この状態において人でなし宣告を受けた人間は、無条件に糾弾可能であるとみなされます。彼あるいは彼女は「ものごとの道理をわきまえない愚か者」であるゆえ、どれほど心ない言葉を浴びせても構わないとされるわけです。
炎上状態において振るわれる言葉の暴力には、慈悲と際限がありません。哲学の立場からは、この際限のなさには、炎上を引き起こした当人に付与される独特な倫理–存在論的規定が関わっていると指摘することができそうです。