イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

迫害には根拠がない

 
 「人間であることの権利の剥奪は、究極的には根拠がないままに行われる。」
 

 いじめの現象を例にとって考えてみます。子どものうちでも、確かにいじめを受けやすい性質というものはあり、それは、身体上の性質から精神上の性質にわたり、さまざまなものがあります。
 
 
 しかし、最後のところでは、いじめられる子がいじめられる理由とは、「その子がどこかの時点で、まわりから『いじめられるべき人間』だという判定を受けたから」ということに尽きるのではないでしょうか。
 

 この意味でいえば、剥奪とは、剥奪の宣言によってのみ開始される独断的な行為です。「この人間は無条件に迫害可能である」、この宣言が実際の迫害を可能にしてしまうという点からすると、この行為には真に恐ろしいものがあるといえるのではないか。
 

 ポル・ポト時代のカンボジアにおいて行われた虐殺では、ある時にはメガネをかけていたというだけで殺されることもあったという証言があります。「メガネをかけているのは知識人だからに違いない」という根拠によるようですが、独断的な剥奪が無条件に殺害可能な人間を生み出してしまった例として、忘れてはならない教訓を歴史に残したといえます。
 
 
 
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 このように剥奪には究極的な根拠がないとなると、考えられるのは、人間同士のあいだで「誰が剥奪し誰が剥奪されるのか」という点をめぐってヒステリックな闘争が起こる可能性です。
 

 実際、いじめの例に戻ると、昨今のいじめにおいては、いわゆる「いじめられっ子気質」の子どものみならず、「ふつうの子」や何かしらの高く評価される特質を持った子がターゲットになることも稀ではないようです。成績のよさ、運動能力の高さといった特質までもがいじめの「根拠」とされてしまうことを考えると、ほとんど先ほどのカンボジアの状況にも近く、事態の深刻さを思わずにはいられません。
 

 どんな人間であっても、原理的にはある日突然に剥奪と無条件的な暴力の対象になりうる。『審判』をはじめとするフランツ・カフカのある種の作品は、きわめて現代的なものであるこの不安を先取りしたものとして考えることもできるかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 

レディオヘッドの楽曲『魔女を焼け』は、剥奪と暴力のモメントに関わる作品として捉えることができるかもしれません。]