これまで剥奪と暴力のモメントについて見てきましたが、ここからは、これらのものに対するオルタナティヴの可能性を探ってみることにします。
「無条件の受け入れが、議論と対話における平和の条件である。」
議論している相手を、自分と同じ人間として受け入れること。わざわざ言うまでもない当たり前のことのにも思えますが、このことを実践しつづけるのは、時にはきわめて困難です。
議論の炎上状態においては、この受け入れの回路がショートし、相手を人でなしとして糾弾するに至ります。そこからは無条件的な暴力(これは基本的には言葉によるが、場合によっては現実的・物理的なものにもなりうる)が導かれてしまうことは、すでに見たところです。
このことを避けるためには、受け入れの方もまた無条件的なものでなければならないのではないか。
無条件的とは、「わたしは、たとえあなたが何を言うとしてもあなたのことを同じ人間として受け入れつづける」ということです。ここにおいては、わたしの忍耐と寛容が鋭く問われることは間違いなさそうです。
たんなる無関心ではないしかたで他者を同じ人間として受け入れつづけるために必要とされる努力は、場合によっては耐えがたいほどにまで大きくなることが予想されます。それというのも、人間は、自分とは違うしかたで考える人間の思考に対しては、強烈な違和感を感じずにはいられない性質を持っているからです。
すでに論じたように、とくに話が倫理の領域に及ぶとなると、この違和感はほとんど敵意と呼ばざるをえないほどの激しさにまで高まってしまいがちです。おそらく、この敵意とすれすれの違和感とどう向き合うかということが、私たちの時代が抱えている最も重大な課題のひとつなのではないか。
気がついてみると、誰が始めたともわからないままに、世界は炎上の時代とでも呼ぶべきもののうちに進み入りつつあります。炎上の原理が言論の領域のみならず、経済活動やエンターテインメントの戦略、さらには政治まで動かすものとなっている現状において、この原理に向き合う倫理を模索することは、この時代の哲学の務めなのではないかと思われます。