イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「貴重な友人」

 
 「わたしにとって、わたし自身の倫理的欠陥を指摘してくれる友人の存在はかぎりなく貴重である。」
 

 ここでは、インターネット上のコミュニケーションはとりあえず除外して、直接に対面する生の人間関係に話を限定することにします(前者には別枠での考察が必要と思われる)。
 

 大人同士のコミュニケーションにおいては、互いの人格上の欠点について語られることはきわめて稀です。だからこそ、たとえそこそこ仲の良い友人であっても、何かトラブルが生じたときには、きちんと話し合うことなしにだんだん疎遠になってゆくということになりがちです。
 

 したがって、わたしの倫理的欠陥を指摘してくれる友人は、面倒を引き受けてまで関係を続けようとしてくれているという意味では、とてつもなくありがたい存在であるといえるのではないか。
 

 トラブルが回避されるのは多くの場合、思いやりからというよりはむしろ、わざわざもめるのに多大なコストがかかるからである。そう考えてみると、人間というのは実は互いに対して驚くほどに無関心な存在なのではないかとも思えてきます。
 
 
 
インターネット 倫理的欠陥 絶滅危惧種 スピノザ 貴重な友人 他者アレルギー 人格性
 
 
 
 そういうわけで、くり返しになってしまいますが、わたしの人格上の問題にまで踏み入ってきてくれる友人というのは、ほとんど財産の中の最大の財産であると言えるかもしれません。彼あるいは彼女がわたしに払ってくれる関心の大きさは、他者アレルギーの蔓延するこの現代においては特に、もはや絶滅危惧種ともいえるほどに稀であるように思われるからです。
 

 ただ、わたし自身の人格性を批判されるというのは、かぎりない不快感(場合によっては苦痛)を伴うのは言うまでもありません。その不快感をふり捨てて「欠点を指摘してくれてありがとう!」ともしも言えるならば、その人はおそらく類い稀に高貴な魂の持ち主であるといえそうですが、スピノザの表現を借りるならば、その道はまさしく稀にして困難であると言わざるをえないのではないか……。
 

 おそらく、人格性の完成をめざすならば、このような「貴重な友人」の存在は不可欠なのではないかと思われますが、果たしてそのような友人をあえて望む人はどのくらいいるのだろうか……。ありがたくないわけではないとはいえ、それ相応の覚悟が必要とされるのは確かです。