それでは、哲学が立てるべき問いのうち、最も重要なものとはなんだろうか。筆者は、それは次のような問いなのではないかと考えます。
「わたしは人間として、どのように生きるべきか。」
近代の哲学はおおむね、「わたしは何を知りうるか」という問いを中心に展開されていたといえそうです。けれども、この問いよりも、むしろ上の問いのほうが優先されるべきなのではないだろうか。
なぜなら、知るという行為が人間にとって最善のものであるかどうかは、必ずしも明らかではないからです。
個人の信念としては、筆者は、哲学者として生きることは人間にとっての最善の道の一つなのではないかと考えています。けれども、たとえば医者のように、他者の命を救うことに人生を捧げる生き方もあることを考えるとき、他のさまざまな生き方と比べて、知ることを最優先する生き方が無条件でよりよいものであるとは言えないように思われます。
しかるに、人生を生きることができるのは一度かぎりであるとなると、「人間としてどのように生きるべきか」という問いは、哲学にとって最も重要な問いであるといわざるをえないのではないだろうか。
ここでは、この問いのうちに含まれる「べき」という表現にも注目しておくことにします。
「〜しなければならない must」は、自由意志のいかんに関わらずなすべきことを示す表現です。それに対して「〜べきである should」は、自由意志の働く余地を残しつつも、それでもなお、これこそが善であるといえる(あるいは、そう思われる)事柄を示します。
わたしには、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。人間にとっての善とは、一体なんだろうか……。
以上のような問いに答えられるのは、迷いから解放された人間だけなのではないかとも思われますが、あらためて考えてみると、生き方に問題のない人はそもそもこのような問いを立てることもないようにも思われます。探求のうちで何らかの道が示されることを期待しつつ、先に進んでみるしかなさそうです。