イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現実主義に基づく非現実主義

 
 聖人というトピックに話が及んだので、この機会にひとつの問いを提出しておくことにします。
 

 「どれほど突拍子もなく響くにもせよ、この世が抱える問題は、すべての人が聖人になる、あるいは、聖人になることを目指すことによってしか解決されえないのではないか。」
 

 この考え方を便宜上、万人聖人主義と呼ぶことにしましょう。万人聖人というこのイデーは哲学的にみて、どこまで擁護されうるものなのでしょうか。
 

 すぐさま付け加えておきたいのは、言うまでもないことですが、この万人聖人主義がこの地上で実現される見込みはきわめて低いということです。しかし、万人聖人の状態を人類が向かうべき極限点として立てることは少なくとも論理上は可能であり、ひょっとすると、必要ですらあるのではないか……。
 

 20世紀の思想家でいうと、たとえば、ジャック・ラカンエマニュエル・レヴィナスは、この万人聖人主義に親近性のきわめて高い発言をしています。また、マルティン・ハイデッガーの「将来的な者たち」という概念などは、それ人類の中の少数者であるという違いがあるとはいえ、ある種の聖人的な形象に時代を乗り越える可能性をみるという点においてはこの立場と近似しています。
 
 
 
万人星人主義 平和 カタストロフ ジャック・ラカン エマニュエル・レヴィナス マルティン・ハイデッガー 絶対平和主義
 
 
 
 平和時にはナンセンスとしか見えないこの万人聖人主義ですが、戦争などの緊急事態のことを考える際には、途端に現実度を増してきます。
 

 例えば、今の時点から振り返ってみると、第二次世界大戦を止めるための手段は、世界中の人々が自国中心主義を一斉に捨てることくらいしかなかったのではないかとも思われます。
 

 カタストロフか、それとも万人による絶対平和主義かというのは、それこそ悪夢のような二者択一です。しかるに、人類はかつてこの二者択一に直面し、そのことの当然の帰結として、ほとんど迷うことなくカタストロフの方を選びとった……。
 

 こうした歴史の教訓を想起する際には、万人聖人主義というイデーも一笑に付すわけにはゆかないのではないかと思えてきます。「現実主義者こそ聖人について思考しておくべきなのではないか」という問題提起を、今日の結びとしておくことにします。