イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

役者であることの不可避

 
 万人聖人主義というイデーが多少なりとも大げさに響くことは否めませんが(ただし、一般に、ある思想の徹底性がその思想の弱さとなることはない)、同じ問題をより控えめな視点から眺めてみることはできるかもしれません。
 

 「私たちは自分たち自身の日常を生きることによって、この世界の構成と維持に休むことなく参与している。」
 

 どれほど小さく見えようとも、この世界はそれぞれの片隅で日々を生きる個人から成り立っています。したがって、それぞれの個人は各々の瞬間ごとに「世界はどのような者であるべきか」という問いに対して絶えることなく投票を行っているともいえるわけです。
 

 このことは、すでに論じた「哲学の最も重要な問い」(詳細については「問うべき問いとは」を参照)についても新たに教えるところがあるといえるのではないか。
 

 「わたしは人間として、どのように生きるべきか。」おそらく、この問いは、最終的には言葉だけで答えられる問いではありません。むしろ、この世に生きる誰もがこの問いに対して日々自分自身の答えを身を以て提示しつづけているのではないだろうか。
 

 言葉とはちがって、行動にはある意味ではごまかしがききません。いくら秘密にしておこうとしても、その人が何を大切にしているのかは、その人の行動となって外に現れてこざるをえないからです。
 
 
 
万人聖人主義 人間 個人 哲学
 
 

 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」さまざまな人間模様という劇を眺めていたつもりのわたしも、望むと望まざるとに関わらず、常にすでに世界という劇場の一役者であらざるをえない……。
 

 この劇場には、それこそありとあらゆる役者が揃っています。とうぜん、「世界を動かすものは何か」という問いに対しても、その答えは役者ごとにみな異なっています。
 

 いわく、それは金銭であり、愛である。それは憎しみであり、怠惰と安逸であり、希望であり、搾取と肉欲であり、虚栄心である……。
 

 哲学者も役者の一人として、「世界を動かすもの、それは思想である」と答えます。他の役者たちと同じく、彼にもまた、自分自身の答えと一致した人生を生きているかどうかが常に問われることになるでしょう。