ここで、人格の完成というモメントにもう一度立ち戻って考えてみることにします。
「人間は、完全な人間になるという不可能な要求を課せられつつ生きてゆくものなのではないか。」
聖人になることへの、あるいは人格の完成への要求は、意識するとしないとに関わらず、人間存在に取り憑きつづけています。この要求に対しては、次の二つの態度がありうるように思われます。
1.要求を無視する、あるいは拒絶する。
2.要求を引き受ける。
2.要求を引き受ける。
おそらく人間としては、すぐさま1の方を選びたくなるというのが正直な所なのではないかと思われます。それというのも、2の選択が不可能な終着点を指し示していることは、誰の目にも明らかだからです。
罪の普遍性テーゼ:
すべての人は、何らかの倫理的欠陥を持っている。
聖人の完全性テーゼ:
あるべき人間は完全な人間であり、従って、倫理的欠陥を持たない。
あるべき人間は完全な人間であり、従って、倫理的欠陥を持たない。
最初から無理とわかっているこんな目標に、どうやって向き合えというのか。これはもはや、「人間ではない人間になれ」と言われているようなものではないか……。
「あなたは、完全な者になりなさい。」厄介であるのは、言うまでもなく過大なものに見えるこの〈善〉からの要求を、人間は一から十まで拒絶するわけにはゆかないという点です。
〈善〉と縁を切るときには、ひとは遅かれ早かれニヒリズムのうちに落ち込むことになります。このニヒリズムなるものは、当座の気晴らしによってとりあえず生を引き延ばしつづけてゆくことはできますが、その引き延ばしをやめた途端に、人間に対して苛責のない「わたしは生まれてくるべきではなかった」を突きつけてこずにはいないものです。
不可能な〈善〉か、残酷な無意味か。困難な祝福か、出口なしの呪いか。日常の穏やかさは平和の外観を保ちつづけてはいますが、人間が置かれている状況とは、本当はこうした尖鋭な二者択一のうちにあると言えるのかもしれません。