イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代のグノーシス

 
 〈善〉の要求の苛烈さということに関して、もう一つ論点を付け加えておくことにします。
 

 「現代の人間には、父という次元が限りなく遠いものになっているのではないか。」
 

 父の次元とは、掟の次元です。しかるに、現代という時代はあらゆる掟の相対化というモメントによって印づけられます。
 

 掟を排除した結果、人間はきわめて風通しのよい世界を手に入れることになりました。この世界においては、威厳のある父の名において抑圧的なしかたで語る人はほとんどいません。
 

 ついほんの最近まで、家庭にも、外の社会にも多くの厳しい「父」がいたことを考えると、この変化はめざましいものであるといえます。言うまでもなく、この変化のうちには歓迎すべきものもあるということは否定できません(父性は、あまりにも容易に暴力と結びつくことがしばしばであった)。
 

 ところが、その代わりに私たちの世界には、ある奇妙な人たちが少しずつ現れるようになりました。彼らは「わたしは生まれてくるべきではなかった」とつぶやき、自らの消滅を願いながら陰鬱な消費と気晴らしに時を費やしています。掟を失った人々というのが、彼らの名前です。
 
 
 
善 父 掟 グノーシス フィクション 善悪の彼岸
 
 

 掟がなくなったように見える世界においても、掟は、不在のままに人間を死に至る病へと追いやるというしかたで働きつづけている。こうしてみると、人間はどこまで行ってもこの掟なるものとは、そして父の次元とは縁の切ることができない存在であるということが痛感されます。
 

 ひとよ、あなたは自由だ。だが、あなたがこの自由をあらゆる掟の消滅と、あの善悪の彼岸の目眩と取り違えるとき、あなたは死ぬだろう。
 

 かつて、古代という時代には、ローマ帝国の市民たちはグノーシスという症候に取り憑かれていました。この症候はおそらく、父のいない世界においては必ず蔓延せずにはいないものです。
 

 脱聖化したように見える現代の世界もまたフィクションやゲームを通して、あらゆる形態のグノーシス主義を消費しつづけています。ここにおいてどれほど多くの「わたしは生まれてくるべきではなかった」がたえず叫ばれ続けているかということは、若者たちの誰もが知るところです。