イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

表現の自由の裏面

 
 フィクションについて、まずは次の二択を問うことから始めてみることにします。
 
 
 問い:いかなるフィクションを創作することも作者の自由であるか?
 
  1.然り。作者は、どんなフィクションでも創作してよい。
  2.否。どんなものでも自由というわけにはゆかない。
 

 1に体現されるような表現の自由がまずもって重要なものであることは、言うまでもないかもしれません。言論と表現に規制をかけないことは、現代の世界の大原則に属しています(この原則は、超越的審級を排除する、内在性としての近代に由来する)。
 

 しかし、次のような思想について考えてみる時にはどうだろうか。
 
 
 反世界の「道徳思想」:
  他者に害を与えることは、善である。
 

 もし仮に、この思想を大々的に肯定し、喧伝するフィクション作品が爆発的に売れるようなことがあるとしたら、私たちはそれでも表現の自由をこのケースにおいて肯定するべきだろうか。この思想が人々のあいだに広まることは、明らかに人間全体にとって望ましくないように思われるが……。
 
 
 
フィクション 道徳 公共の福祉 表現の自由
 
 

 この問題が複雑であるのは、ひとつには、公共の福祉という観点がフィクションの領域においてはきわめて曖昧なものとなってしまうからであるように思われます。
 

 表現の自由は、公共の福祉に反しないかぎりで保証されています。しかるに、フィクションの場合には、たとえ害があるとしてもすぐにその結果が現れてくるわけではないので、実際に「公共の福祉に反する」という判断を下すのは、実践的にはかなり困難になってこざるをえません。
 
 
 その一方で、フィクションはそれに触れるものの心を作りあげてゆくものであり、その力は今や、他の文化的生産物に比べても圧倒的に大きいと言わざるをえない。ここにおいては、ここの作家の自由が何よりも尊重されるべきであるのは確かだとしても、すべてを完全に自由に委ねた時に破滅的な事態がもたらされる可能性が存在することもまた、否定できないのではないか……。
 

 現在、10代の青少年たちが日常において触れるさまざまなフィクションの作り手たちには、きわめて奔放な想像力の行使が許されています。人間の心の形成という観点からみれば、この国に生きる私たちが、彼らに対していわば「かなりリスキーな博打を打っている」側面があることは確かであるように思われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
[反世界については、昨年、「悪と反世界」で少し考えてみたことがあります。]