イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

世界の終わり

 
 そろそろ、フィクションの肯定的な側面についても考察を加えてみることにします。
 

 「フィクションは、目の前の現実を超えて生について考えることを可能にする。」
 

 近年のフィクションでしばしば取り上げられる、世界の終わりというモチーフを例にとりましょう。私たちはふだん、いわゆる日常の世界を生きていますが、ある日この世が突然に終わりを迎える可能性はないとは言い切れません。
 

 小惑星が地球に衝突し、疫病によって人類が死滅し、人間の世界が人工知能のそれに取って代わられるとしたら。フィクションに触れることによって、人間は、こうした途方もない状況のうちにも自分の心を置き入れてみることができます。
 

 終末は、人間にとって重要なことと、本当はどうでもよいこととを峻別します。「今日で世界が終わるとしても、わたしはこれを行うだろうか」と問うことは、自分自身の生を吟味するうえでの大きな手がかりになりえます。
 

 世界の終わりというテーマは哲学的に見てもきわめて重大なものなので、いずれ詳しく問いなおしたいと思いますが、この例からしても、フィクションに触れることが、別の視点から生を見つめなおすきっかけとなりうることは見てとれるのではないでしょうか。
 
 
 
 
フィクション 世界の終わり 人工知能 終末 滅び
 
 
 
 もう少しだけ、今回取り上げたモチーフに沿って考えてみます。
 

 「この世なんて、早く終わってしまった方がよいのではないか。」その答えは、イエスでもノーでもありえます。大多数の人の思いに反して、すべての事情を鑑みれば、本当は世界が今すぐに消滅することを望む方が倫理的にみて妥当であるという可能性さえも、少なくとも論理的な観点からすればゼロとは言えません。
 

 実際に破壊行為に走るならば犯罪者ですが、この問いをひとつの創作行為にまで高めるならば、その人は芸術家になります。彼あるいは彼女は、「人類は生きるに値するのか」という問いを他者たちに投げかけることで、人間の世界に貢献を行うことになるでしょう。
 

 滅びへと向かいかねない力を滅びとは別の方向に向けることができるかどうかは、人間にとってつねに火急の問題です。この意味からすると、世界の終わりというモチーフに取り組む芸術家は、すぐれて公共的な仕事に従事していると言えるのかもしれません。