イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「責任は誰にあるのか?」

 
 もう少し哲学問題としての終末について考えてみるために、次のような問いを投げかけてみることにします。
 

 「この世の終わりが来なければならないとすれば、その理由は何か。」
 

 この問いに対しては、次の二つの区別が重要であるように思われます。
 

 1.人間の罪とは関係なく、終末が訪れる。
 2.人間の罪のために、終末が訪れる。
 

 小惑星の衝突などといった例は、1に当たります。フィクションではこうしたケースも多いように思われますが、言葉の本来の意味での終末論はやはり、2の方向を示唆しているといえるのではないだろうか。
 

 2の場合、終末を招いてしまったのは人間です。こんな風になるなら、あんな悪いことなんてしなきゃよかったと嘆いてみても、いったん終末が来てからではもうどうにもなりません。この場合、覆水盆に返らずという表現が状況を的確に言い表すことになるでしょう。
 

 核戦争や環境問題のことを考えると、唯物論者でさえも、この2の意味での終末を笑い飛ばすことはできません。人類が死滅する前になんとか方向を転換したいところですが、やはり、事が起こるまでは変われないのが人間の性なのではないかという疑いは拭い去れません。
 
 
 
人間 罪 終末 核戦争 環境問題 唯物論者
 
 
 
 さて、もう少しだけこの問いを突き詰めてみます。もし仮に、人間の罪のために終末が来なければならないとしたら、その責任は一体誰にあると考えるべきなのでしょうか。
 

 2−1.この世が終わるのは、一部の人々の責任である。
 2−2.この世が終わるのは、すべての人の責任である。
 

 前者のように誰か特定の人々に責任を負わせることができるとすれば、残りの人々はまだ少し気が楽かもしれません(「ほら、見たことか!」)。救いようもなく陰鬱なのは後者の方で、この場合、すべての人間がひとり残らず「何らかのまずいことをしでかしてしまった」がために、この世が終わるということになります。
 

 哲学的にみて最も興味深いのはこの最後のケースなので、もう少しだけ脱線してこのケースを中心に問題を掘り下げてみることにします。ここから倫理的に学べることは少なくなさそうですが、考察を加えてゆくにあたっては、何よりも筆者自身もまた救いがたい倫理的欠陥の持ち主の一人であることを肝に命じておくことにします。