イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

カタストロフと愛

 
 終末論者については、次の二つのタイプを区別することができそうです。
 

 1. 世を愛さない終末論者
 2. 世を愛する終末論者
 

 1のタイプはルサンチマン型終末論者とも呼ぶべき人々ですが、この人たちがこの世の終わりを信じる理由は、門外漢にもわりに分かりやすいといえます。たとえば、人間そのものが厭わしい場合に終末を待ち望むようになる気持ちは、非-終末論者にも想像可能だからです。
 

 これに対してはるかに理解するのが難しいのは、2のタイプではないでしょうか。
 

 世を愛し、人間を愛しているならば、そのまま生き続けても何の問題もないはずではないか。なぜわざわざ、世界の終わりなどという極端なものを信じるというのか。
 

 終末論者のThe比較級構文:
 ある種の終末論者は、終末の到来が近づけば近づくほど、人間を愛する。
 

 カタストロフへの信と人間への愛とが相乗効果的に高まってゆくというのは、人間の心の神秘に属することと言えるかもしれませんが、さまざまな歴史上の資料は、このことが実際に起こりうることを示しています。愛のある終末論者という言葉の組み合わせが、少なからず奇異に響くことは否めませんが……。
 
 
 
終末論 愛 カタストロフ 隣人愛 人間学
 
 
 
 けれども、よく考えてみると、このパラドキシカルなThe比較級構文も、少し考えてみると、それなりに納得がゆくようになるように思われます。
 

 仮に、今日でこの世が終わるとします。そうなると、今日というこの最後の地上の一日を隣人に対してアンフレンドリーに過ごすよりは、むしろなるべく隣人とは平和かつ友好的に過ごしたいという人はかなり多いのではないでしょうか。
 

 「今日で世界が終わるなら、今こそ奴をぶっ殺す!」という人もいるかもしれませんが、この手の人は平常時から相当のワルであることが予想されます。そういうことがチラリと頭をよぎったとしてもなかなか実際の行為には足を踏み出せないというのが、大抵の人の心理であろうと思われるので……。
 

 そうなってくると、終末がこの世に訪れると信じた場合には、実は少なからぬ人が今よりも愛にあふれて生きるようになるのかもしれません。ヤケになって極端な行為に走る「自暴自棄派」の出現は恐怖でしかないことは否めませんが、このあたり、人間学の立場からは注目を向けずにはいられない主題であるといえます。