イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

今日で世界が終わるとしたら

 
 そろそろ終末についての考察は一区切りということにしたいと思いますが、最後に、(あまりにも?)しばしば取り上げられるものであるとはいえ、やはり次の問いを問いかけておくことにします。
 

 「今日で世界が終わるとしたら、わたしは何をするだろうか。」
 

 すでに一度論じたように、終末は重要なものとそうでないものとを峻別します。まるで「あなたは何のために生まれてきたのか」という声が鳴り響くかのように、終末はわたしの実存を問いたださずにはいません。
 

 私たちは、日常というぶ厚い水の上を漂うようにして生きています。ここに働いている抗いがたい浮力のために、水の中へと深くもぐってゆくことは常に極めて難しい。
 

 私たちは卑怯なことに、いつでも本題をかわしつづけている。あの中心、生と死がまじりあう神秘的な中心が、私たちを燃やし尽くさずにはおかない仮借なさを備えていることを知っているからだ。
 

 欲すると同時に逃げつづけ、求めながらもためらったのちに後ずさりする、この自分自身の不実から私たちはいつ抜け出すのだろうか。本当はそこに辿りつくことがだけが問題であると知っているにも関わらず、私たちはまるで死などこの世に存在しないかのようにして、知らないふりをしつづけている……。
 
 
 
日常 フィクション 本来性 映画 ゲーム 終末 実存
 
 
 
 現実においては日常という名の眠りの中を生きている私たちは、フィクションのうちでは倦むことなく世界の終わりをめぐるドラマの画面を見つめつづけています。このことは一面から見れば、実存における本来性の回避を、虚構における擬似-本来性の措定によって埋め合わせていると言えるのかもしれません。
 

 映画やゲームといったフィクションは、言うまでもなく、自分の生を見つめなおすための機会になりえます。けれども、もしそれが、目を覚ますことのないままに死ぬための鎮痛剤になっているとしたら、その時それはなおもよいものであると言えるのだろうか。
 

 終末をめぐる問いはかくして、フィクションそのものの意義を問いただす地点にまで辿りつきます。終末論とフィクションのあいだには、どこまでも近くてどこまでも遠い、いわく言いがたい絡み合いの関係が存在しているように思われます。