イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『カゲロウデイズ』について

 
 反出生主義と次の探求の主題を結ぶ導きの糸として、今回はボーカロイドによる楽曲『カゲロウデイズ』を取り上げてみることにします。
 
 
じん/カゲロウデイズ
 

 ボーカロイド音楽において際立っているのは、作品と死との間の距離の危機的なまでの近さです。作品とは、作品自身を崩壊にまで引きずりこまずにはおかない暗い深淵との関係なしには成り立たないものですが、この深淵との接近の法外さこそが現代という時代の作品のあり方を特徴づけているといえます。
 

 『カゲロウデイズ』が描き出すのはアドレッセンスの夏にほかなりませんが、それは甲子園とみずみずしさの夏でも、ノスタルジーと恋の憧れの夏でもなく、血の無限反復としての外傷の夏です。この意味での夏もまた、日本のサブカルチャーにおける古典的主題(あるいは、回帰するオブセッション)をなしていますが、この作品はスピード感のあるアグレッシブな楽曲によって、この呪われたモチーフに新たな形を与えています。
 

 語り手は、8月15日と8月14日のあたりを際限なく死につづける惨劇の見物人となるという自らの状況(時間系列の逆転と、この日付に含まれる歴史的コンテキストに注意)を「実によくある」話であると表現しています。終わりがないという終わり、あるいは永遠の殺害という、ある意味では語り手の言うとおりテンプレートなこの異常な日常のハイライトの瞬間を切り出してくるのが、この楽曲の眼目にほかなりません。
 

 その観点から耳を傾けるとき、この曲におけるBメロからサビへの移行は実に鮮やかです。Aメロを引き継いだのちに、いわば階段の踊り場のようにしつらえられたこの束の間の休息(この休息は、いわゆる日常系の作品を取り巻くアトモスフィアと重ね合わせてみるべきである)から息をつく暇もなく急転直下で導入されるサビの部分は、肉体を玩具のように引きずるトラックや、落下して体を貫く鉄柱のように意識に突き刺さります。
 
 
 
じん カゲロウデイズ 外傷 アート 血 学園 死 サブカルチャー 夏 ボーカロイド
 
 

 こうした曲を聴いていると、否応なく、外傷としてのアートという観念について改めて考えさせられます。アートはたまたま血を取り扱うのではなく、アートとはもともと血以外の何物でもないのだという命題は、議論の余地があるのは確かであるとはいえ、それほど的外れなものであるとも思われません。
 

 この曲の存在を筆者に教えてくれたのは、高校三年生のMさんですが、情報を提供してくれた彼女には感謝です。現在、彼女はさまざまな事情からくる自殺願望のうちで学園最後の日々を過ごしていますが、彼女が自らの地獄と決着をつける日が来ることを祈ります。