イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

地獄の問題

 
 そろそろ、今回の探求の主題に移ることにします。
 

 「第二の死が実現される特権的な場所とは、地獄にほかならない。」
 

 フィクションの中で鳴り響く苦しみの無限反復の叫び声もきわめて興味深いものですが、やはり本来の第二の死といえば、この領域をおいて他にないでしょう。地獄は人間にとって、時代や場所を問わず、想像力の豊かな源泉でありつづけてきました。
 

 地獄が文化の違いにも関わらず、つねに炎という形象とともに語られているのは意味深いことです。まるで人間には、罪深い者は死後に永遠の業火によって燃やし尽くされると信じずにはいられない傾向がもともと備わっているかのようです。
 

 現代では地獄への信仰はことごとく下火になったようにもみえますが、ちょうどそれと呼応するかのようにして、若者たちはフィクションの中で死後の苦痛の極限を、ある意味では安全なしかたで味わいつづけています。実際に地獄へゆくことがあれば誰もが生半可な苦痛では済まされないであろうことは、まず間違いなさそうですが……。
 
 
 
第二の死 フィクション 地獄 反出生主義
 
 
 
 これから先、哲学問題としての地獄について論じてゆくにあたって、先に目を向けておきたいことが一点あります。それは、「この世には、地獄が存在することを支持する証拠もないが、否定する証拠もない」ということです。
 

 地獄について真に恐ろしいのは、この場所については、後からでは取り返しがつかないであろうということです。おそらく、もしも本当に人が地獄にゆくようなことがあれば、その時には文字通り100%の人間が「もっと何か手を打っておけばよかった」と後悔することでしょう。
 

 しかし、行ってしまってからではもう遅い。人糞の山のようなこの世とおさらばして、やっと永久の眠りにつけると思ったとしても、そこに待っているのがこの世以上の破滅であったとしたらどうだろうか。反出生主義者が夢みる甘美な瞬間が、実は終わらない阿鼻叫喚の始まりであったとしたら……。
 

 想像するだに恐ろしいので、筆者としてはこれ以上書くのを控えます。個人的には悔い改めによる主との和解を強く推奨しつつ、これからこの場所が提起する若干の哲学問題について、少し考えてみることにします。