イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「覆水盆に返らず……。」

 
 地獄について、まずは次の点を指摘しておくことにしたいと思います。
 

 「地獄は人間に、立ち戻りの可能性が尽き果てる地点を指し示す。」
 

 人生はいつでもやり直せるというのはよく言われることですが、定義上、このことは死後の地獄には当てはまりません。真の終わりである地獄は、あらゆる他の可能性を排除しつつ、ただただ永遠の苦しみが味わわれる場所に他ならないからです。
 

 真面目に考えると、これは発狂しかねないほどに恐ろしいことであるといえるかもしれません。苦しみそのものも言うまでもなく恐怖をそそるものですが、出口なしというモメントもまた、それに劣らず忌まわしいものであるといえるのではないか(再びハイデッガーを引き合いに出すなら、おそらくは、この「出口なし」を実存論的なしかたで詳細に分析する必要があろう)。
 

 私たち人間には、何があっても「物事は、いつかきっとよくなるはずだ」と思わずにはいられない傾向を持っています。絶望的な出来事や境遇のせいでこうした期待が打ちひしがれてしまうことはありえますが、それでも、人間には自分でも思っている以上にしぶといところがあるというのは否定できません。
 

 しかし、地獄が提示する「出口なし」は、定義上、善へと向かう可能性をすべて廃棄します。可能性が消滅するということこそ、絶望の中の絶望であり、破滅の究極の形にほかなりません。
 
 
 
地獄 出口なし 実存 被投性 不条理 善
 
 

 地獄ではおそらく死による消滅さえも禁じられているので、人間は、すべてをあきらめるという最後の希望にすがることもできません。世界内への被投性とは異なる地獄への被投性は、もはや不安を引き起こすものや不条理といったものですらなく、ひたすらに呪いであるというほかなさそうです。
 

 そういうわけで、たとえ人が地獄の実在を信じていないとしても、この苦しみについてはあまり冗談のネタにはしない方がよさそうです。万一のことがあった時には、人間を襲うのはおそらく後悔につぐ後悔でしかなさそうなので……。
 

 この記事を書いている筆者自身、めったなことを書いてしまっては、この先ひょっとするとまずいことになるのではないかという気がし始めてしまいました。うっかり書いてしまったことが原因で業火に焼かれるのは何としても避けたいので、恐れ畏みつつ先に進むことにします。