イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

寄る辺なさを否認することはできない

 
 地獄についての考察を終えるにあたって、次の点を改めて確認しておくことにします。
 

 「死後のことについては、私たちは無知である。」
 

 人間に間違いなくわかっているのはただ、自分の身体が、いつの日か朽ち果てて死ぬであろうということだけです。その後に待っているのが完全な無であるのか(だが、コギトにこの完全な無なるものを思惟することが果たして可能なのか?)、それとも別の何かであるのかについては、生きている間に十分な答えが与えられることは決してないでしょう。
 

 この点からすると、死を〈他なるもの〉との関わりにおいて捉えたエマニュエル・レヴィナスの分析にはきわめて深いものがあるといえます。無神論者に対しても、信仰者に対しても共通しているのは、人間にとって、死とは一個の謎に他ならないということなのではないでしょうか。
 

 その日はいつかやって来る。その日はわたしの思い込みと自己中心的な望みには、何ひとつ譲歩することがないだろう。その日は、わたしには意のままに消滅する権利もなければ、自分勝手に救われる権利もないのだということを、容赦なく啓示することだろう。
 

 わたしがわたしではないものに全てを委ねることになるその日は、いつやって来るのだろうか。望みつつ、恐れながらその出来事を待ちつづけているわたしの残りの日の数は、見えない指によってすでに数え尽くされている……。
 
 
 
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 現代人の傲慢とは、死とは無に還ることであると根拠なしに思いこんでいることです。おそらく、人間にはそうしたことについて一切知る権利を持たないというほどに死に対しては無力であるというのが、この主題に関する実情なのではないでしょうか。
 

 反出生主義や、自殺を美化するその他のさまざまな思想は、筆者には、人間が抱えるこの根源的な無知を否認するところにしか成立しないのではないかと思えます。「自分には消滅する権利がある」という想定は、自分は独力で永遠に生き続けることができるのだという確信と同様の愚かさを免れていないのではないだろうか。
 

 もっとも、まるで自分で自分を救うことができるかのように考えるとするならば、信仰者もまた同種の過ちを犯すことになるでしょう。死に対する人間存在の徹底的な無力を、あらためて今回の考察の結論のひとつにしておくことにします。