イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

デスノート問題

 
 今回からの探求では、次のような問題について考えてみることにします。
 

 デスノート問題:
 名前を書けばその人を殺すことのできるノートを拾ったとして、そのノートを使って世界を変えることは罪だろうか。
 

 映画にTVドラマ、ミュージカルなど、週刊少年ジャンプに掲載されていたマンガ『デスノート』は、連載開始から15年が経過した今日においても、さまざまなメディアを賑わせています。このことは、このマンガ自体の魅力もさることながら、デスノートという設定のうちに何か人間を(いい意味でも悪い意味でも)引きつけてしまうものがあることを示しているのではないか。
 

 思うままに人を殺すことのできるノートというのは、もしもそんなものを実際に手に入れてしまったとしたら、できるだけ早く捨ててしまった方がよいのは言うまでもありません。おそらく、人間はそんなノートを使いながら破滅しないで生きてゆけるほど強くはないので、自分自身のためにもそれを手放すのが得策でしょう。
 

 しかし、それを使うことでこの世をよい方向に変えることができるとしたら、どうだろうか。デスノートという設定が提起しているのは、人を殺すことで世界に正義をもたらすという可能性はありうるのかという哲学的な問いにほかなりません。
 
 
 
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 2018年3月初頭現在、この世界には、さまざまに深刻な問題が山積しています。
 

 たとえば、シリアの内戦はえんえんと続き、海の向こうで人は死につづけているが、先進国の人々にとってはオリンピックのメダル獲得数の方がはるかに大事なようである。自己投影しやすいように作られたドラマでやすやすと涙を流すことには精を出したがるにも関わらず、実際に流れている血を止めるためには、誰もいつまでたっても指一本たりとも動かそうとしない……。
 

 ……という風に考えている人間が仮にいたとして、その人がデスノートを拾うことがあったとしたら、そのうちニュース欄が原因不明の大量死の知らせで埋め尽くされるということも起こるうるかもしれません。筆者自身はデスノートの使用は許されないと考えており、反オリンピック主義者でもないことを断ったうえで、これから少しこの問題について考えてみることにします。