まずは、次の点を確認しておくことにします。
「デスノートによる世界の変革は、天の裁きというイデーを媒介として行われる。」
私利私欲のためではなく、公共善の促進のためにデスノートを使用してゆくという場合には、一般に「悪人」と呼ばれている人々の名前をノートに書いて消してゆくという方策が取られることになるでしょう。ここで重要なのが、「悪人」たちが消えてゆくという実質的な出来事に加えて、そのニュースを聞いた他の人々のあいだにもある効果が及んでゆくという点です。
誰がどう見ても悪であるとされるような人々が次々と原因不明の死を遂げてゆくとなれば、「これは何らかの裁きなのではないか」という憶測は急速に広まってゆくことでしょう。人間の抱く次のような原初的信念は、どんな人のうちにも執拗に回帰してこずにはいないからです。
道徳についての原初的信念:
悪を行う人間に対しては、どこかの時点で罰が下る。
天罰というこのイデーは、ヒッグス粒子やiPS細胞についての研究が進み、AIの隆盛が喧しく論じられるこの21世紀においてもなおも強固なものです。ましてや、デスノート使用者が本格的に「粛清」に乗り出した時には、多くの人がそれを天罰と、あるいは天罰の代行と考えることは避けがたいのではないかと推測されます。
となると、デスノート使用者にとって次に問題となるのは、「一体誰を消すべきか?」という点でしょう。
たとえば、それが巨大な悪であることは知られているにも関わらず、そこに絡む利権があまりにも大きすぎるがために、それを告発しようとする人間たちの存在が消されるというイシューは、2018年3月上旬現在の地球においても多数存在します(筆者は謀殺の可能性を極度に恐れるゆえに、関心の向きのある諸賢はインターネット等で検索されたし)。こうしたイシューは、まさに現時点ではデスノート以外によっては解決しようのないものであると言えるのかもしれません。
どんな人間をどんな順番で消してゆけば、最も効率よく公共善の促進は進むのか。大変にダークなこの問いも一定量の考察を要するものではありますが、ここではデスノートの使用に関する哲学的な探求が目的であるため、この問いは提起するにとどめ、使用プランの詳細にはとりあえず立ち入らずに進んでゆくことにしたいと思います。
[筆者自身は、デスノートの使用には反対の立場です。]