デスノートによって世界の変革に乗り出すにあたっては、ただちに次のような反対意見に遭遇することが予想されます。
この糾弾に対しては、おおむね二つの方向が考えられるかと思います。
1. 「確かに、その通りだ。僕も一人の人間にすぎない。」
2. 「言っても分からぬ馬鹿ばかり……。」
1のように悔い改めればそちらの方が望ましいのかもしれませんが、それならばもともとデスノートを使おうと思い立つこともなさそうです。やはりここは、2の路線が取られると考えるのが自然でしょう。
そもそもデスノート使用者からすれば、このような糾弾をする権利があると思っている人間は、来るべき「新世界 A Whole New World」にとっての障害でしかありません。こんな人間は、できるだけ早くノートに名前を書いて消してしまった方が公共善のためになるというものかもしれません。
ここまで見たところで、ただちに次の点が明確になります。それは、人を殺すことは原則的に悪であるとはいえ、デスノート使用者にとっては、彼あるいは彼女自身にはその原則は適用されないとみなされるという点です。
利得のために人を殺すというならば、ただの殺人犯であろうが、デスノート使用者がノートを用いるのは、あくまでも世界の変革のためである。言うなれば、悪が消滅する世界をもたらすために、仕方なしに緊急手段に訴え出ているに過ぎないのである。
善を愛し悪を憎む一人の人間がいわば自分自身を犠牲にして、退廃した人類を粛清するという汚れ仕事を引き受けているのである。その人間の自己犠牲を単なる殺人としか見ることのできない無知蒙昧の愚か者は、残念ではあるが、一人残らず消し去るしかない……。
政治哲学的に見ると、ここにはあのナチス第三帝国を理論面から支えようとしたカール・シュミットに典型的に見られるような、例外状態の論理が働いているのがわかります。ともあれ、デスノート使用者には、ある種の決断主義的な倫理観を奉じるよう求められることは、どうやら間違いなさそうです。
[筆者自身は、デスノートの使用には反対の立場です。]