イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

堕落を糾弾するサディスト

 
 先に進みます。
 

 デスノート使用者の論理その4:
 世界が公共善に関する無知の状態に置かれている以上、デスノート使用者としても「実力行使」による改革に乗り出さないわけにはゆかない。
 

 今の世界は、救いがたいほどまでに堕落している。これが、デスノート使用者のこの世に対する状況認識です。そして、この堕落は彼によれば、もはや堕落しすぎて自分たちが堕落していることにすら気づいていないというレヴェルにまで達しているといえる。
 

 堕落の2類型
 1.堕落していることを自覚しながら堕落している。
 2.堕落していることにすら気づかずに堕落している。
 

 1ならば、まだ説得と議論による「世界のリベラル化」を期待することもできるでしょう。ところが、2の場合には、人間はもはや堕ちるところまで堕ちていながら、そのことを恥とすら思っていないという意味において、1よりもはるかに重症であるといえる。
 
 
 
 デスノート 堕落 サディスト 公共善 正義感
 
 

 より細かく見るならば、2の場合をさらに二つのタイプに分けることができるかもしれません。
 

 無自覚な堕落の2類型
 2−A.堕落の事実を指摘されれば、悔い改める。
 2−B.堕落の事実を指摘されても、悔い改めようとしない。
 

 仮に自らの堕落に無自覚であるとしても、悔い改めるならば、その人間は「新世界」への居住権を手にしてしかるべきであろう。しかし、もしも悔い改める気さえもないというならば、その時にはデスノートによって実現される平和を享受するには値しないと言わざるをえず、場合によっては不適格者としてそれなりの「処置」を下さざるをえない……。
 

 ……他の人々に対して「堕落している」という糾弾を行うのはかなり僭越なようにも思われますが、一旦火のついたデスノート使用者を止めることは大変に困難であることが予想されます(善を行っていると確信しているサディストほど恐ろしいものはない)。いずれにせよ、堕落という問題はただちに罰を下すことの正当性に直結するため、無視できない危険をはらんだものであると言えるのではないか。
 

 「適切な罰を下すことによって、もはやとどめがたいものとなった人類の堕落を是正するのである。」このようなロジックのもとで人間が行動に移る際には、場合によっては殺人のような暴力が善なるものとして正当化され、さらには鼓舞されることさえもありえます。正義感のない人間ではなく、むしろ時に正義感の強い人間の方こそが大量虐殺に走ることがあるという事実は、ひとを人間性そのものに対して震撼させずにおかないものであるように思われます。