デスノートによる「新世界」の到来という問題圏はおそらく、次のような二択を人間に迫るのではないでしょうか。
1. 今の世界: 恐怖は存在しないが、暴力の犠牲になる他者は存在する。
2. 「新世界」: 恐怖はすべての人に及ぶが、暴力の犠牲になる他者は存在しない。
この二択のどちらを取るべきかは、難しい問題であるといえそうです。ただし、今の世界を選択するためには一定の覚悟がいるということについては、ここで改めて確認しておいてもよいかもしれません。
それは、今の世界の方を選択するということは、自分ではない誰かが犠牲者となることを望むということになってしまいかねないからです。
自分が暴力の犠牲になることがあらかじめ分かっていて今のこの世界を望む人は、まずいないでしょう。ということは、「新世界(そこでは、デスノートによる罰への不安がすべての人を支配する)」よりも今の世界を選ぶというのは、「自分以外の誰かは傷ついても構わないから、自分は安心して生きていたい」というポジションを取ることを意味するのではないか。
これは、なかなか胸を張っては選びにくい立場です。かと言って、もう一方の新世界をえらぶというのは、自分自身もデスノートによる「制裁」の可能性にさらされるのを受け入れるということになります。
誰かを見殺しにして安全に生きるか、自分も恐怖にさらされつつ、恐怖とひとつながりの平和を望むか。言い方は悪くなってしまいますが、これが、デスノートが人間に対して提起する問いの一つのリミットであるように思われます。
たとえば、私たち自身の安全が危険にさらされかねない状況を受け入れることでシリアの内戦(行きがかり上このケースを挙げるが、ここには国内外を問わず、他の無数の悲惨を代入することもできる)が終わるのだとしたら、私たちは自身の安全を部分的に捨てるだろうか。
ことデスノートによって到来する「新世界」に関しては、一般に悪とされる行為に踏み出さないかぎりデスノート使用者に消されることはとりあえずなさそうなので、もう少し気軽に(?)考えてみてもよいかもしれません(「デスノートはよい子には怖くない」)。しかし、この二択が倫理学の観点からすると無視することのできない問いかけを提起していることは、どうやら間違いがなさそうです。
戦争が悪いということには、多くの人が同意するだろう。しかし、自分の安全を部分的に放棄すれば戦争がなくなると言われて、すぐに自分がペイすることを選択する人は、どれだけいるのだろうか……。
デスノート問題はかくして、あまり居心地のよくない二択を私たちに提示することになります。この問題にかぎらず、倫理学という分野にはこの種の困惑を人間に課す傾向があることは、この学の本質に属することのように思われます。