イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ノート使用者とプロレタリアート

 
 次のような立場を検討してみることにしましょう。
 

 デスノート主義者の立場:
 新世界が実現されるならば、デスノートを使用したことは罪にはならない。
 

 デスノート使用者は、新世界の到来によってもたらされる変化のプラス面とマイナス面の比較を通じて、この立場を擁護することになると思われます。
 

 新世界到来の
 プラス面……暴虐と悲惨の完全な消滅
 マイナス面……一定数の犠牲者
 

 世界を変革するためにデスノートに何人の人間の名前を書かねばならないかは、それこそ実地で試してみないとわかりません。「対象」と「効率性」に対する使用者の手腕が問われるところですが、いずれにせよこの変革については、「誰も他人を傷つけることのない世界」というプラスの側面が限りなく大きいことは否定できません。
 

 「世の中、悪もあるくらいがちょうどいいではないか。」
 

 このような反論が出てくることは当然予想されるところですが、デスノート使用者からは、「それは、たまたま安全なところで生きている人間の論理である」という再反論がありうるかもしれません。現状を肯定するというのは、今起こっている暴力に対して(意識的であれ無意識的であれ)同意を与えることに他ならない、というわけです。
 
 
 
デスノート 新世界 資本主義 プロレタリアート ブルジョアジー 暴力
 
 

 たとえば、資本主義の暴力が今よりもずっと激しく、剥き出しのものであった19世紀から20世紀前半にかけては、次のようなイデーはかなり多くの人に受け入れられていました。
 

 「資本主義は、最終的にはいくぶんかの暴力を用いてでも打倒しなければならない。」
 

 当時にあっては、人間が文字どおり使い捨てられてゆくような社会にあっては、富を持たないプロレタリアートは、富めるブルジョアジーに対して実力行使で応ずることもやむなし、と主張されました。この主張によれば、「世界は平和のうちにだんだんよくなってゆく」などという考えは、貧しい人間たちに暴力を振るっている人間たちの言うことであって、結局のところは単なる偽善でしかないということになってきます。
 

 今日、資本主義が生み出す暴力と歪みは依然として存在しつづけているとはいえ、さすがにこうした主張はかつてのような勢いを持たなくなっています(ただし、全ての問題が解決したわけではないのは言うまでもない)。ともあれ、「いざという時は暴力もやむなし」という主張は、デスノート主義者の占有物ではないということだけは確かなようです。