イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

命の代替不可能性

 
 デスノート主義者の主張を、もう少し検討してみることにします。
 
 
 新世界到来の
 プラス面……暴虐と悲惨の完全な消滅
 マイナス面……いくぶんかの犠牲者
 

 新世界の到来に際するプラス面とマイナス面を比較した場合、プラスの要素の大きさには無視できないものがある。確かに、人を殺すことが悪であるのは間違いのないことであろうが(マイナス面)、デスノートを用いることによって、そうしなければ救うことのできなかった命を救うこともできるのではないか(プラス面)。これが、デスノート主義者の主張するところでした。
 

 このような論理に対してはまず、次のような反論を行うことができるのではないか。
 

 「人間の命は、ほかのものと比較してよいようなものではないのではないか。」
 

 人間の命は、本当は数えることができるようなものではなく、量に還元されてもならない。ある人間Aと人間Bの命は1+1=2と計算できるようなものではなく、それぞれ代替不可能な一つの命である。
 

 経済の論理とは数の論理に他ならないが、こと人命に関してはそのような計量の対象にすべきではない。いわゆる悪人と呼ばれる人々といえども、デスノートによって何らかの社会的改良の犠牲にされるべきではないのではないか……。
 
 
 
デスノート 新世界 悪人 哲学 エマニュエル・レヴィナス 命 代替不可能性
 
 

 こうした考え方は、ある種の理想にすぎないようにも聞こえる側面があることは否定できませんが、その一方で、私たちの世界を作り上げている制度や法律は、実際にこうした原理に依って立つものであると言うこともできます。この理念をどこまで実現できるかは別にするにしても、私たちの世界がこの理念を向かうべき方向として掲げていることは事実です。
 

 しかるに、デスノートの使用は、この理念に真っ向から逆らうことになる。他に代えることのできない命を、何かのための踏み台にしてもよいのか。それをしてしまうことは、たとえ善をもたらす側面もあることは否定できないにもせよ、私たち自身の向かうべき目標を裏切ることにはならないか……。
 

 この理屈でデスノート主義者が自らの主張を撤回するとはあまり期待できなさそうですが、少なくともこれは一つの反論にはなっているとは言えそうです。命の代替不可能性というこのイデーに哲学的な基礎を与えた20世紀の哲学者として、エマニュエル・レヴィナス(彼は、この代替不可能性の哲学的根源を無限と超越の概念に求めようとした)の名前を最後に挙げておくことにします。