前回の論点を掘り下げるために、次のような状況を考えてみることにします。
「世界を滅びから救うために、一人の人間を殺すことは正当化されうるか。」
これはかなり非現実的な状況であることは間違いありませんが、「思考実験 Experientia mentis」は哲学の方法の一つでもあるので、今回はこの路線で考えてみることにしましょう。ここではたとえば一人の少年、Aくんの命が問題になっているとします。
Aくんの命を犠牲にすれば、私たち人類の全員が助かるとしましょう。まず間違いなく言えるのは、もしも私たちがこのような状況に置かれたならば、私たちはほぼ確実にAくんを犠牲にして自分たちが助かることを選ぶだろう、ということです。
しかし、現実上はそれでも「やむを得ない」(デスノート問題については、この表現が頻出することに注意)としても、倫理的にはそれで問題ないのでしょうか。Aくんは他の誰でもないAくんその人であり、他の人間の命と数量の上で比較するべきではないのではないだろうか……。
ここで改めて問題にしたいのが、個々の人間の代替不可能性という前回見た論点です。
これが人間ではなく他の存在者、たとえば一枚のルーズリーフであるとすれば、一枚を無駄にしたとしてももう一枚を使えば済むことで、場合によってはノートから一枚破ってその代わりにしても、あるいは何かの裏紙を使ってもよいかもしれません。
しかし、一人の人間が、より正確には、Aくんというこの世にたった一人の人間が問題になっている時には、ことはそういう具合には運ばないように思われます。たとえば、「Aくんがいなくなったけれど、Bくんが生まれたから問題ない」とは言っていけないと思わせる何かが、ここには働いているのではないだろうか。
デスノートを使ってこの世を変えるというのは、この代替不可能性というイデーを一時的にもせよ棚上げすることを意味します。人間には、果たしてそのことを行う権利があると言えるのだろうか……。
人間の命の代替不可能性というこのイデーに人間が本格的に向かい合いはじめてから、実はまだそれほど時間が経っているわけではありません。このイデーについては、哲学はこれからまだ長い時間をかけて付き合ってゆく必要があるといえるのかもしれません。