イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

地球で毎日起こっていること

 
 命の代替不可能性という反論は強力なものですが(詳細については前々回と前回の記事を参照)、デスノート主義者からは、次のような再反論がありうるように思われます。
 

 「確かに命はかけがえのないものではあるが、そのかけがえのない命が誰かの手によって毎日奪われているのが、現実のこの世ではないのか。」
 

 たとえ世界の全体のために一人を犠牲にすることが理念上は許されないとしても、今日も地球のどこかで誰かが別の誰かを殺している。
 

 また、たとえば貧困についてはどうだろうか。地球のどこかで誰かが、レストランで高い食事を頬張りながら言う。
 

 「世界の問題は、少しずつ解決されてゆくだろう。」
 

 それは、そうかもしれない。しかし、それまでに搾取され、傷つけられ、一度の人生を奪われるのはその人ではない。それは、豊かな環境に生まれて平和のうちに死んでゆくその人ではない、別の人間たちだ。
 

 今日も、海の向こうでそうした人間たちは、生き延びる私たちの代わりに死んでゆく。私たちは今日もそのことに気づかないふりをしながら、自分の生活のうちに閉じこもる。
 
 
 
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 「グローバルに考え、ローカルに行動する Think globally,Act locally」。現実にはそのように行為するしかないとしても、もしもこの言葉がある種の免罪符として機能するとしたら、その時には人間は偽善のそしりを免れないのではないか。
 

 ことは国外に限らず、身近な隣人たちについても当てはまるかもしれません。もしも日々の生活が本当は構造的な弱者を踏み台にしながら営まれる「異常な日常」に他ならないとするならば、その際には人間の世界をそのまま肯定するわけにはゆかなくなってきます。
 

 デスノートで世界を変えるというデスノート主義者の主張は、こうした事情のことを考えるときには再びリアルなものとなってきます。「かけがえのない命がないがしろにされているからこそ、殺してでも状況を是正しなければならない」というこの主張について、もう少し検討してみることにします。