正義の次元の切迫性について考えてみるとき(前回の記事を参照)、次の問いはいよいよクリティカルなものになってくるのではないか。
「新世界を到来させるために成功した場合にも、デスノートを使って人を殺したことは罪とされるのだろうか。」
これまで控えてきましたが、この点については、『デスノート』の原作に言及しておくのがよいかもしれません。このマンガの連載当時、主人公の夜神月がデスノートによる世界の変革に最終的に失敗して死んだあたりで、筆者は、一読者でもあった友人が単行本を読みながら次のような叫びを発したことを記憶しています。
「もうこれ、夜神月が成功して終わりでよかったじゃん。」
ふつう、映画やマンガのあらすじにこうしたコメントを挟みたくなることはそれほど頻繁にはないように思われますが、こと『デスノート』に関しては、彼女と同じ感想を抱いた人は少なくなかったのではないだろうか(原作が夜神月の死をもって終わったことには、ある種の必然性があったことは確かであるとしても)。
原作において夜神月は、デスノートを用いて人を殺しつづけることによって、すでに世界中の犯罪発生件数を低下させるところまで計画を進めていました。マンガの中では最後のところで正体が露見したことがもとになって死んでしまいましたが、もしそのまま成功していれば、彼はおそらく自らの理想とする新世界を実現していたはずです。
ニッコロ・マキャヴェッリのような人ならば、成功したデスノート使用者は殺人犯ではなく平和の守護者であると主張するかもしれない。それに対して、「たとえ成功したとしても人殺しは人殺しである」としてデスノートの使用を糾弾する人間は、はたしてどれくらいいるのだろうか……。
多数派であることが倫理的判断を妥当なものにするわけではないのは言うまでもありませんが、この問題については、夜神月を支持する人が決して少なくないであろうという点を鑑みるとき、事態が紛糾してくるのは確かです。事によると、もしも原作と同じ出来事が現実において展開された場合、夜神月をある種の救い主と思わない人は、ほとんど存在しないのではないか……。
夜神月のような人物の存在はかくして、倫理について私たちがふだん抱いている信念を大きく揺るがします。「実例が原理を掘り崩す」という法則(合理論に対する経験論の深淵とでも形容しうるであろうか)は、それが現実であれフィクションであれ、ひとしく妥当するといえるのかもしれません。