イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この世を変えるものは

 
 筆者がデスノートの使用に反対する理由の一つには、次のものがあります。
 

 「この世は、一人一人の小さな努力によってしかよくならないのではないか。」
 

 もちろん、システムを変えたり大きな事業をなしとげたりといったマクロなレヴェルでの変革も重要であるのは間違いないでしょう。けれども、最終的にはやはり、一人一人の人間の心のあり方が変わらないかぎり、この世から解決すべき問題がなくなることは決してないのではないだろうか。
 

 もっとも、すべての問題の解決などあり得ないのではないかという意見ももちろんありえますが、ここではその論点はおくことにして(いずれにせよ「すべての問題の解決」は、カント的な意味での理念性を持ってはいる)、シリアの内戦を例にとって考えてみることにします。
 

 この文章を書いている4月11日現在、シリアについて、空爆において毒ガスが用いられたというニュースが報じられています。この件が今後どう進展するかはまだわかりませんが、女性や子供を含むシリアの民間人が大きな苦境のうちにあることは、いずれにせよ変わりがありません。
 

 この内戦が終息に向かわない理由はさまざまに考えられますが、その一番の原因は、私たち自身を含む国際社会が、「この地域は仕方ない」とどこかで諦めているからなのではないか。
 
 
 
カント シリア内戦 アサド政権 近代国家 冷戦 無関心
 
 

 アサド政権のこれまでの歴史(もし上記の知らせが本物であるとしても、毒ガスの使用は今回が初めてではない)、イスラーム内での宗派対立(近代国家と同質性をもつ集団分割の不一致という20世紀的な悪夢は今日も存続している)、そして、何よりもシリアをめぐる大国間の対立構造(ことシリアに関しては、ポスト冷戦という語はほとんど意味を持たない……)など、この問題の内幕に足を踏み入れ出すと、きりがありません。
 

 けれども、「世界がこれまでにシリアの人々のことをもっと考えていたならば、事態は異なっていただろう」ということだけは、いずれにせよ変わりがないように思われます。とりわけ、自国内のことに閉じこもりがちな私たちの国においては、この問題(とその他の多くの国際問題)への無関心にははなはだしいものがあると言わざるをえません。
 

 この世が変わらない最大の理由はおそらく、なべて人間の無関心にあるのではないだろうか。この意味からすると、無関心こそは哲学が対峙すべき対話相手のうちでも最たるものであると言えるのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
[この記事を書いた4月11日以降のシリア情勢の変動にははなはだしいものがありますが、今回の考察の中心的な主題ではないので、とりあえずこのままの形で載せておくことにします。シリアについては、いずれ別の機会に詳しく論じることにしたいと思います。]