イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

デスノート問題についての考察の終わりに

 
 今回の探求の終わりに、次の点を確認しておくことにします。
 

 「人間の行動を最終的に決めるのは、決断の瞬間における一種の狂気に他ならない。」
 

 デスノート主義の切迫性と説得力を認めたうえで、最後のところでそれを受け入れることはしない。それが、デスノート問題に対する筆者の現時点での結論です。
 

 しかし、「デスノート主義者の肩を持ちながら、最終的にはなぜ彼を支持しないのか」という問いに対する決定的な答えはなかなか一つには定まらなさそうです。様々な角度から論じてみるとしても、おそらく、究極的な決め手に辿りつくことは不可能でしょう。
 

 というのも、およそ哲学の問題、特に倫理的な問題に関しては、それぞれの人間の答えを決定するのは、その根底において非合理的な決断(ゴヤにならって、これを「怪物ヲ生出ス理性ノ睡リ」と形容することができるであろうか)であると思われるからです。
 

 世界の変革に際してはデスノートを用いるべきだという立場を取るにしても、用いるべきではないという立場を取るにしても、それをすべての人間に対して正当化できる根拠は存在しないのではないか。自分の行為に正当性を与えるものもないままに行為しなければならないというのが、人間の置かれた避けがたい運命なのではないかと思われます。
 
 
 
 デスノート主義 新世界 暴力 カント 律法主義 倫理 非合理
 
 
 
 「もしも新世界を到来させることに成功したとしても、デスノートの使用は罪とされるだろうか。」この問いに対して答えることは誰にとっても容易ではなさそうですが、筆者は今のところ、結果がどうであるにせよ彼は罪とされるのではないか(この点については、カント的な律法主義に従うことをも必要なしとしない)と考えています。
 

 もちろん、これとは別な風に考える人も決して少なくないでしょう。
 

 「世界を本当に変えることができるのだとすれば、多少なりとも(殺人をも含む)暴力を振るうことをも辞すべきではないのではないのか。」これは深淵における問いであり、この問いの最終的な局面に至ってはあらゆる議論が停止されて、ただおのおのの答えだけがほとんど根拠を持たないままに剥き出しで提示されざるをえないのではないでしょうか。
 

 一応はもともと議論を進めようと思っていた地点まで辿りついたので、とりあえず今回はここで探求を中断することにします。残っているいくつかの論点については、また別の機会に立ち戻って考えてみることにしたいと思います。