前々回、前回と教育について少し書いてみて、この後も記事の中で考えつづけてみようと思っていましたが、どうもそれは時期尚早なのではないかという気がしてきました。
「よい教育とは何か」という問いに答えを出すには、まだ経験が足りなさすぎることは間違いありません。そもそも、他者のことについて論ずる前に己の不徳を正せと言われれば、全くもって返す言葉がないことも否定できません。
しかし、そうは言っても、この世には次のような事情があることもまた考慮に入れておくべきなのではないか。
「問いを問うことのできる時間は、いつまでもあるとは限らない。」
逆流性食道炎は以前よりもかなり緩和されましたが、筆者自身、いつ突然の病に襲われないとも限りません(死への恐怖のため、フランス語でいう虚辞のneと同等の表現を思わず使用せずにはいられない)。
4月23日14時48分現在、筆者は職場にてデコポンを食しながらこの文章を書いていますが、これが絶筆にならないという保証はどこにもありません。教育の仕事に全力を捧げるというならば、力量不足を認識したうえでも、なお困難な問いに挑んでみるべきなのではないか……。
難しいのは、哲学の書き物とはどのようなものであるべきかという問題に関する次の二択については、望ましいのがどちらであるのかは必ずしも明らかではないという点です。
1. 問題が完璧に秩序立てられて論じられているもの。
2. 問いの大きさのうちに書かれたため、半ばカオスのような様相を呈しているもの。
一見すると1の方が望ましいようにも思えますが、小さくまとまるくらいなら、問いのとてつもない大きさのうちで思考が乱気流のように渦巻いているものの方が、かえって真の哲学らしさを備えているといえるのではないか……。
そんなことを言っても、読まされる側はたまったものではないという気もしますが、いずれにせよ、そろそろ丸三年を迎えるこのブログを読んでくださっている辛抱強い読者の方がいることには、ただひたすらに感謝というほかありません。気の向くままに書いているので、読んでくださいとは間違っても言えないことは確かですが、哲学精神だけは失うまいと踏ん張り続ける予定ですので、もしよろしければ、お時間のある時にでも目を通していただければ幸いです。