イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

許される嘘なるものはありうるか

 
 もうしばらくゆったりと書いていようと思っていましたが、次の問いがやって来てしまったので、これから考えはじめることにします。
 

 「嘘をつくことは、いかなる場合にも悪なのか。」
 

 正直に言って、倫理について書きつづけるのがしんどかったために少し休みたかったというのもあるのですが、問いの方に捉えられてしまったら、哲学者としてはジタバタするわけにもゆきません。問題が哲学者に奉仕するのではなく、哲学者が問題に奉仕するという従属関係を逆転させることはできないようです。
 


 あらゆる人間にとって、嘘をつくという行為には多かれ少なかれ関わらずにはいられないものであることは誰も否定できなさそうですが、はたして、ついてもよい嘘というものは存在するのだろうか。これは、なかなかすぐにはイエスともノーとも答えがたい問いです。

 

 個人的な話になって恐縮ですが、筆者自身は今までの人生において、倫理的に生きてきたという実感がほとんど全くありません。そういう人間が倫理の問いを問うてもよいのかという疑念はたえず頭を去りませんが、この世にはおそらく罪人しかいないこと、また、人間が問うのは自分がわからないことだけであるということを自分に対する口実としつつ、これから考えてみることにします。
 
 
 
 倫理 嘘 ゲーテ 哲学者
 
 
 
 まず最初に前提しておきたいのは、原則的にいって、人間同士の関係においてはできるだけ真実を言い合うことが望ましいという点です。
 

 中には、「そもそも嘘をつくことはある種の不可欠な必要悪なのであるから、嘘をつくこと自体を否定するには及ばない」と考える人もいることでしょう。そういう人々にとっては、「ついてもよい嘘は存在するか」という問いに対する答えは、即座の、そして揺らぐことのないイエスとなるでしょう。
 

 しかし、そこから論じ始めるとそれはまた別の問題になってしまうので、今回は上述の前提を採用することとしたい。誠実を理想とした上での、「それでも許されるかもしれない嘘」を考えることに問題を限定することにします。
 

 ゲーテは、あらゆる詩は機会詩であると言っていましたが、筆者自身も特にここ数年、あらゆる哲学は機会の哲学であるとますます強く感じさせられています。ここではその機会の個別性に直接触れることはしませんが(それほど大きなものではなかったが、問いを到来させる程度のものではあった)、人生の流れが人間に問いを与えるということについては、今さらながら、何かとても不思議な感じがします。