イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

マイルドな無関心

 
 「この世には、同じ個性を持つ人間は二人と存在しない。」
 

 すでに見たように、本音を言い合える友情の関係がこの上なく貴重なものであることは間違いなさそうですが、人と人を隔てる差異なるものの存在について考えるとき、事情は少し複雑になってきます。
 

 あなたとは、なんでも話せる。そう思っていた相手が実は自分と違うことを感じていることがわかった時、人間はそのことに幻滅しつつ、戸惑います。こうした経験をくり返す時、人間は次のような「大人の選択」に身を委ねた方が賢明なのではないかという思いにとらわれることになります。
 

 「大人の選択」:
 一定の程度以上の相互理解を諦めつつ、互いの立場を尊重する。
 

 この「互いの立場を尊重する」とは、たいていの場合、互いに対して無関心になるということの言い換えとなっています。「もうこの話題については、これ以上この人と話しても無駄だ」と互いに密かに感じあっているとすれば、一体友情とは何だろうかという気にもなってきます。
 

 けれども、ある面では、まさにそれこそが人間の生の実情なのではないだろうか。お互いに完全にわかりあうのは、ムリだ。もうどうでもいいから、とりあえず人間は諦めて、日々のパンと最低限の心の慰めだけは確保しよう……。
 
 
 
友情 大人 嘘 金子みすゞ ドゥンス・スコトゥス タウマゼイン
 
 
 
 人類の少なからぬ割合の人々が相互理解の可能性を意識的あるいは無意識的なしかたで放棄しているということは、筆者には、否定することのできない事実であるように思われます。
 

 「みんなちがって、みんないい」は、金子みすゞあるいはドゥンス・スコトゥス的な、個体の特異性に対するタウマゼインの情動を指示することも確かにあるとはいえ、マイルドな無関心と表裏一体になっている場合がほとんどなのではないか。そもそも、他者の差異が喜ばしいものであるというのは、留保なしに気軽には肯定できないようにも思われます。
 

 知り合ったばかりの頃は、確かに、自分と相手との違いはほどよい刺激として、互いの心を喜ばせうる。しかし、時を経るとともに、その違いはしだいに、互いに対するある種の耐え難さへと移行せざるをえないのではないか……。
 

 ……自分でも、なぜこんなにネガティブなことを書き続けているのかわからなくなってきましたが、幻滅を乗り越えない愛は幸福な思い違いでしかないことも確かです。この意味からすると、人生における人間関係の課題とは、幻滅と希望のあいだに妥協のない均衡を打ち立てることに他ならないといえるのかもしれません(ただし、この課題は言うまでもなく容易なものではない)。