イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

パロールかエクリチュールか

 
 「人間疲労との関係においては、哲学者にとって、パロールエクリチュールかという二択は死活的に重要である。」
 

 哲学の世界の内輪話になってしまいますが(もっとも、何の領域においても真に興味深いのは内輪話に限るという側面がないわけでもない)、人間疲労というモメントは、哲学者にパロール話し言葉)ではなくエクリチュール(書き言葉)への道を突き進ませるとも言えるかもしれません。
 

 僕は世の中を捨てて、対話の道を選んだはずだった。その点、かつての僕はかのソクラテスを気取っていたといえなくもない。
 

 だけど、対話も人間も、もうたくさんだ。話しても意味ないし、問答法も時間の無駄だ。どうせ、ほとんどの人間は真理を求めてなどいないのだ。すべては煙だ。
 

 以上のように実際に考えていたかどうかは別にして、『ゴルギアス』から『パイドロス』『国家』にかけての思想の変遷をたどっていると、あのプラトンも人間疲労からある種の闇堕ちに陥っていた可能性があるという論文を最近読みました。その真偽のほどはプラトン自身のテキストを読みこんで判断するほかなさそうですが、いずれにせよ、哲学者にとってエクリチュールという可能性が前面に押し出されてくるのは、まさにこのような疲労の瞬間に他ならないといえます。
 

 もう僕は、今の人類に向かっては語るまい。僕は、未来の来るべき人間たちに向かって書くのだ。ビンに詰めて手紙を海に流すような絶望の試みだけが、後の時代の岩波文庫を生みだすに違いない……。
 
 
 
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 こうして、マルティン・ハイデッガーの言葉を借りるならば、「将来的なものたち」に向かって書くという哲学者の決死の踏んばりが展開されることになります。現在の人類には絶望しているのに、なぜか未来の読者だけは手放しで信頼できる根拠がはたして本当にあるのかが必ずしも明らかではないとはいえ、この道を選んだ先人の数は少なくありません。
 

 もうこんなん書いてても何にもならずに朽ち果ててゆくのかと思うと、ホント鬱になる。だけど、大学もやめちゃったし文芸誌はただの既得権益の巣窟と化してるし、どうすればいいんだよちくしょう。調子に乗って書いてた昔の記事のことを思い出すと恥ずかしくて爆死しそうになるけど、もういい、どうせ死ぬなら、書きたいこと思いっきり書いてから死んでやる……。
 

 ……こと筆者自身に関しては、上のような絶望とは無縁であることは言うまでもありませんが(文芸誌はもちろん、この国の人文知の希望の星である)、哲学者にとっては芸術家と同様、人間疲労というモメントがその歩みにとって特別な意味を持つものになりうることは間違いなさそうです。鴨長明からルソーに至るまで、歴史に残るのは決死の覚悟で書き上げられた自爆覚悟のエクリチュールに限るという法則は、少なくともある程度までは妥当するように思われます。