そろそろ、嘘という当初の主題に近づいてゆく準備が整いつつあるようです。
「哲学者には、おのれの欲望について嘘をつくことが許されるか。」
行きがかり上、哲学者を範例にとって考えてみることにしましょう。哲学者の発言にも本アカウントと裏アカウントの区別が存在するとすれば、その欲望の表明はおそらく次のようなものになるかと思われます。
これは、歴史上名を残しているほとんどすべての哲学者(+多かれ少なかれ独自の哲学を練り上げゆこうとしてきた、数多くの哲学者たち)について言えるのではないかと、筆者は推測しています。先に断っておくと、こう書いている当の筆者自身、可能か不可能かは別にするにしても、岩波に残りたいという欲望と手を切ることはできないと、年を経るにつれてますます確信は深まりつつあります。
虚しい欲望だと、言わば言え。岩波に、残りたいものは残りたいのである。自分の書いたものがいつの日か、あの白と青の表紙からなるコンパクトな文庫本に変身し、二百年後の大学の学部生が、生協の本屋か何かでそれを買って読むのである。読者のうちの何人かは、そこに書いてある真実の人間の姿に触れて、思わず涙を流したりするのである。
まさしく不毛かつ浅はかと思われるとしても、諦められないものは仕方ない。この望みを根絶することが不可能である以上、これから先もこの世の片隅で、限りなく地味にはるか未来の岩波入りを狙いつづけてゆくほかなさそうです。
かくして、たとえ筆者が何を書いていようとも実は岩波のこと以外は考えていないことをこの場において告白しておくこととしますが(投稿前にノートに書いた原稿をiPadで起こしている現在、思った以上に他者から痛ましく思われるのではないかという懸念で動揺していることは否めない)、だからと言って、真理をそれ以上追求するという欲望に偽りがあるわけではありません。ただ、真理と岩波は相互に排他的ではないのではないかというのが、筆者に唯一残されている言い訳であるといえます。
僕は哲学者として、「君たちは岩波を放棄できるか」と同志たちに問いたい。僕はできない。本当は、みんなそうなんじゃないのかい。みんなでカミングアウトすれば、何も恥ずかしくないはずなのだ……。
……大変に見苦しい記事になってしまったことはただお詫びするしかないとはいえ、この問題が、哲学的にみて重要なものであることは否定しがたいように思われます。本音と嘘をめぐる諸問題について、この話題から出発してこれから考えはじめてみることにします。