前回の議論から、派生的ではあるが重要な問いが浮かび上がってきます。
「哲学者は、自分に対する悪口すらも知ろうと努めるべきだろうか。」
まず出発点として、およそこの世においては、悪口を一言も言われていない人間はほとんど誰もいないという事実を確認しておくことにします。悪口を言われるということは、いわば、人間という存在者が存在するうえで課せられる義務のようなものであるとすらいえそうです。
ここから「では、わたし自身についてはどうなのか?」という問いが当然立てられますが、答えとして考えられるのは次の二択です。
1. わたしだけは例外的に完璧な人間であるため、誰からも悪口を言われていない。
2. わたしも当然、他者たちから好き放題にけなされている。
ここで1を正解であると信じるためには、究極のポジティブ・シンキングあるいは法外なオプティミズムが求められることは言うまでもありません。従って、人間はそのめいめいが他者たちと同じように罵詈雑言のサンドバッグ(時間無制限)にされている覚悟をしておく必要がありそうです。
ごめん、僕はぶっちゃけて言うと、君の悪口を言ったことがなくはない。というかごめん、わりといつも思うさま言いまくってる。でも、それって僕が邪悪だからじゃなくて、僕ってホント何も考えてないだけなんだよね。なんで人間って、自分の舌を抑えることができないんだろうね……。
……といったように、こうした際にはつい「わたし」を「人間」に置き換えつつ一般論に逃げたくなりますが、それで悪口を言われた当の他者が納得してくれるかどうかが別の問題であることは間違いありません。ある意味では、自分が悪口を言われるのも、自分が他者たちの悪口を言っていたことのツケが回ってきている(あたかも、永遠に回転しつづけるシヴァの車輪のごとく)と考えることもできるかもしれません。
いやでもさ、僕は確かに悪口を言いまくってるけど、僕自身はやっぱり悪口は言われたくないよ。それって自分勝手なのはわかってるけどさ、僕って嫌な奴なところもあるとは思うけど、根本のところはそんなに悪くない、というか愛らしい人間だって、本当はみんなわかってくれるはず。いやでもこの話題、真面目に考えはじめると、思ってたよりずっと深刻かもしんない……。
おそらく、この「みんなわかってくれるはず」が通じていれば世の中にこれほどの悪口があふれかえっているはずもないので、繰り返しにはなってしまいますが、この主題について決して楽観ができないことは確かです。ただし、この主題について真剣に検討しはじめると他者への具体的な不安が著しく増大してゆくことはおそらく避けられないので、「大丈夫、僕はみんなから愛されている!」という幻想を死守するのも、ある意味で賢明な選択ではあるといえるかもしれません。