イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「ハイキングに行きたいのは誰か?」

 
 「人生においては時に、ネガティブとも取られかねない発言が必要とされる場合もあるのではないだろうか。」
 

 過度の悪口を抑える必要があることは言うまでもありませんが(ただしこれは無論、容易な仕事ではない)、この世には、これはどう見てもおかしいとしか思えない事情や言動も存在します。
 

 筆者自身、脛に傷がありあまっている人間なので、具体的な言及は避けたほうがよさそうですが、そうした物事に対しては、おかしいものはおかしいと、はっきり言った方がよい場合もあるのではないか。
 

 例として、以前に人から聞いたことのある、ハイキングの喩えを取り上げてみます。
 

 どこからともなく、ある集団の中で「ハイキングに行きたい」という話が出はじめたとします。しかし、本当はそのメンバーの誰も、別にいまそのメンバーでわざわざハイキングに行きたいわけではありません。
 

 しかし、お昼休みや飲み会では、話題づくりの意味もあって、ハイキングに関する発言が積み重なってゆきます。「行きならこの山がいいらしい」「最近運動不足でさ」など、一度はじまった話は、とどまることができません。このまま会話が続けられてゆくならば、この集団はどこかの時点で実際にハイキングに行かざるをえなくなるでしょう。
 

 かくして、本当は誰もハイキングに行きたくないのに、あたかも全ての人がハイキングに行きたいかのように、事態は進行します。高尾山が人でにぎわって、京王電鉄と山上の茶屋は繁盛するかもしれませんが、本人たちはわざわざせっかくの休日を、虚無に捧げることになるのではないか……。
 
 
 
悪口 ハイキング 高尾山 京王電鉄 虚無 山ガール 陣馬山 ピュシス 病欠
 
 
 
 もちろん、たまの自然を楽しんだり、山ガールにウハウハするなどといった副次的メリットを享受するといった選択肢もありえますが、やはりここで必要なのは、誰かが「いや、ぶっちゃけ誰もハイキングとか行きたくないんじゃね?」あるいはそれに類する発言をすることなのではないか。
 

 もちろん、言い方は難しいことでしょう。「上辺の付き合いなのに、かえってハイキングとか行くのはさすがに空々しすぎる」と誰もが心の中では思っていても、それを実際に口にすれば感じの悪い人間だと思われてしまう危険もあります。しかし、誰かが勇気を出して何かを言わなければ、別に仲良くもなんともないメンバーで、下手をすれば高尾山はおろか、その後ろにある陣馬山にまで登らなくてはならなくなってしまう……。
 

 ちなみに、筆者個人としては、高尾山にハイキングに行くならばぜひ陣馬山まで足を延ばすことをお勧めしますが、それは言うまでもなく、陣馬山周辺に出没する山ガールとの出会いにウハウハするためではなく、哲学者には、時おりピュシスの奥深さに触れることが必要であると考えるからに他なりません。ちなみに、もし筆者が上記のような事態に巻き込まれた場合には、当日に「病欠」するという姑息な手段を取ることになるかと思われますが、それはともかく、もう少しこの問題について考えてみることにします。