ハイキングに行きたい人は誰もいないのに、結果としてはみなでハイキングに行ってしまうという困った問題(詳細は前回の記事を参照)は、忖度という概念について考えることを哲学者に要求しています。
忖度の定義:
忖度とは、場の空気、あるいは場を支配する非明示的なコンセンサスに対する、自らの内面からの合意を伴わない追従のことである。
「オリンピック、絶対盛り上がろうね!」たとえば、そのように言う人のすべてが果たして本当にそう思っているかというと、必ずしもそうではありません。
「ほんとダルいわ、この会話。でも職場の人間関係とか話すのはさらにMAXダルすぎるから、テキトーにオリンピックの話に乗っかっとこーっと。」
「いやもう、ぶっちゃけスポーツとか、マジで全然興味ない。でも、フィギュアなんてどうでもいいって言ったら非国民認定される。ましてや、東京でオリンピックなんて悪夢でしかないなんていう本音を口にした日にはそれこそぶっ殺されそうだから、僕はみんなの前では五輪Tシャツを着るしかないのである。」
その他、さまざまな例を想定することができそうですが、忖度とはこのように、自分が全く乗れないものにあえて乗っかってゆく行為です。場の空気が神聖にして不可侵であるとされているこの国においては、忖度は最高の美徳の表れとして、日夜賞賛されつづけています。
オリンピックという目下の例に戻ると、鈴木明子選手の滑ることへの愛に感銘を受けた筆者個人としては、フィギュアスケートへの不満が鬱積しているはずもありませんが、その大半がスポーツに興味のない哲学徒たちのうちには、オリンピックをもてはやす世の風潮に眉をひそめている人も、あるいは存在するかもしれません。
感じの悪い人間だと思われてもいい。根暗なオタクと、言わば言え。僕は、獲得メダル数に興味があるふりをすることは、断固として拒否する。経済効果があろうが何だろうが、僕は2020年を拒絶する。思想犯として、監禁するならしろ。僕は、このゲームには乗らないぞ。
すでに2018年の現時点から、夢の東京五輪に向けてテンションをMAXに高めつつある筆者のような人間からすると、上記のような立場には驚きと戸惑いを感じざるをえませんが、ひょっとするとマイノリティの人々に抑圧的なしかたで忖度させてしまっているかもしれないという意識は必要なのかもしれません。ともあれ、忖度のパラダイスと化している感のあるこの国の状況も踏まえつつ、もう少しこの主題について考えてみることにします。
[記事は基本的に純粋な本音以外のことは書いていませんが、鈴木明子選手への尊敬は、とりわけ本物です。]