イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

傲慢についての人間学的考察

 
 今回はアリストテレス風に、忖度の反対物は傲慢であると言明するところから考察を始めてみることにします。
 

 傲慢の定義:
 傲慢とは、他者への顧慮を欠いたままに行われる、自己の意志能力と行動力の際限なき行使である。
 

 もういい。俺は結局のところ、俺でしかない。このような、的確あるいは不的確な確信に基づき行為する人間は、もはや空気を読みません。彼にとってはただ、世界とは打ち破るべき一枚の壁以外の何物でもないからです。
 

 もうどうでもいいんだ、俺は。どうせこのまま書き続けてたって未来には何もない。動きすぎてはいけないどころか、32年間何一つ動いてすらいないのが、俺の人生だ。
 

 ならば、もう我慢はしない。今まで色々抑えつづけてきたこの俺のブログも、もう今日からは何一つ媚びはしない。誰にも読まれなくても構わない。読まれようと読まれまいと、俺は風のように自由だからだ。
 

 ……などといった確信は筆者にはおそらく生涯湧いてこようはずもないので、おそらくはこれからも個人的には全人生を忖度に費やすことになるかと思われますが、この国の現状を考えると、傲慢に生きることはとりわけ危険な賭けであることを強調しないわけにはゆきません。
 
 
 
 忖度 傲慢 空気を読む チャーリー・ブラウン 憂鬱症 8マイル
 
 
 
 なぜなら、「空気を読む Air Reading」ことが至高の格率として尊重されるこの国では、傲慢であることは、ほとんど国家の敵になることにも等しいとされているからです。うっかり記者会見で「別に」とでも発言しようものなら、その瞬間にその人を待っているのは、言論による無際限の糾弾(これに対しては、涙の謝罪会見以外の選択肢は存在しない)に他なりません。
 

 忖度の帝国において、傲慢は通用しない。それならば、逆に、傲慢が美徳とされている国で暮らすならば万事はOKかというと、今度は周囲にいる無数の傲慢な隣人たちに苦しめられることになるでしょう。そういう国で生きなければならない人は、チャーリー・ブラウンのように憂鬱症を抱えたまま生きるか、あるいはもはや8マイルを逆方向に突き抜けて、「俺の、俺による、俺のための人生」を追求しつくすほかなさそうです。
 

 いずれにせよ、どこに住んでいても人の世は地獄であるという結論から逃れることは難しそうですが、一つの国で生きるとひとたび最終的な決断を下したからには、そこでの適応という問題に向き合うことは必須であるといえます。ちなみに、筆者自身は先日の視察旅行で国外への永久逃亡を半ば本気で考えさせられましたが、そのような行為に移る気力や体力が残されているはずもないので、ここ数日はこの麗しき「SONTAKU JAPAN」で骨を埋めるしかないのだという覚悟あるいは諦念を前にもまして固めつつあります。