イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

一つの国で生きるとは

 
 そろそろ本音と嘘という主題から少し離れて、問いの基調をずらしてみるべき時かもしれません。
 

 「『もうこの国で生きてゆきたくない!』という叫びの正当性は、どのように判断しうるか。」
 

 おそらく、世界のどの国に生まれたとしても、自分の国で生きてゆくのが鬱で仕方ないという瞬間は訪れることでしょう。この主題については、恐るべき結論に至る例の『クリトン』以来、哲学者たちも古来から折に触れて考えつづけてきました。
 

 いやね、誰もが気づいてるとは思うんだけどさ、今の日本ってマイルドにオワコン化してゆく真っ最中なわけじゃない。
 

 上の世代の人たちはそれに気づかないふりして、逃げ切るつもりでいる。僕もそうできればぶっちゃけそうしてたと思うけど、僕の世代はすでにわりとみんな病んでる。これから先は、もう病に次ぐ病しかないのは確実なわけで、だったらいっそ逃げたいなーって……。
 

 ……筆者自身は上のような憂鬱とは無縁であり、これから先も夢の東京五輪を控えるCOOL JAPANでハッスルし続ける予定ですが、ひょっとしたら、中には上のように考える人もいるかもしれません。一つの国で生きてゆくとはどのようなことなのか、これから哲学的に考えてみることにします。
 
 
 
 本音 クリトン オワコン 東京五輪 COOLJAPAN 愛国 リベラル エコノミックアニマル 忖度
 
 
 
 最初にまず確認しておきたいのは、この問題については単純な悲観論でも楽観論でもない、バランスのとれた知恵が求められるであろうということです。
 

 人は、ほかの国よりも自分の国のことを一番よく知っているために、長所も短所もそれだけ目につきやすい。自己愛的な傾向にブレーキをかけずに愛国という名の鏡に見惚れつづけるのも問題ですが、だからといって、さかしらだったリベラルとして自国をただ批判し続けるというのも、おそらくは釣り合いを欠いていると言わねばなりません。
 

 僕もその点は分かってるんだ。僕みたいな甘ったれのダメ人間はたぶん、この国じゃないと生きてゆけない。なんでこんなに働きまくってるんだとか、発想が基本的にエコノミックアニマルすぎて鬱病になりそうとか色々言いたいけど、じゃあ自分は何なんだって言われると、ただの哲学やってるダメ人間以外の何物でないことは否めないのである……。
 

 一つの国の善し悪しを判断することは、一筋縄ではゆかないことは確かなようです。筆者自身は忖度をはじめとするこの国の美徳を愛してやまない人間であることを前もって断りつつ、これから自国で生きることをめぐる考察をはじめてみることにします。