イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「メディアがメッセージを決定する」

 
 本題に戻ります。
 

 「一つの国のあり方は、その国で生きる人間自身が気づかないところで影響を与え続けている。」
 

 たとえば、フランスにおいては、ブログやツイッターは日本よりもはるかに活気がないそうです。特に、ブログ文化の方は黎明期を経て次第に定着してゆくどころか、むしろ緩やかな死滅に向かっていると言ったほうがよいのではないかとのことです。
 

 筆者は目下、そろそろ三年目となるこのブログにおいて哲学を続けられています。しかし、それも少数ながら読んでくださっている方がいるからこそ書き続けられるわけで、これがもしも読者がほぼゼロに近い砂漠的限界状況にでも陥ったならば、おそらくはすさまじい鬱に取り憑かれて更新を中断する他ないでしょう。
 

 2018年現在、文芸誌という文化はもはやシーラカンス以上の生きた化石にも近い何かへと生成変化を遂げているように思われるので、超絶に地味であるとはいえ、この国に人文系のブログ文化が生き残っていることには感謝せずにはいられません。
 

 このことには、それこそ文芸誌を始めとするこの国の言論文化の蓄積が関係していることには間違いなさそうです。この世に(ある程度のフィードバックを保ちつつ)哲学のできる場所はそう多くないので、片隅であるとはいえ一つの場所を与えられていることは、まさしく天の恵みというほかありません。
 
 
 
フランス ブログ ツイッター シーラカンス 文芸誌 哲学 やっかみ
 
 
 
 この機会に付け加えておくと、21世紀の哲学はブログによって築かれるというのは、筆者には、あながち根拠のない妄想とは思われません。
 

 いや、言いたいことはよくわかっているつもりだ。でも、僕は完全に終わってる人間なんだ。朽ちゆく哲学徒の最後の意地だと思って、どうか聞いてはもらえまいか。
 

 哲学者がこういう形で思ってることをぶっちゃけられるようになったのって、今までになかったはずなのだ。だって、大学の論文ではこんなこと、書けるはずないもの。僕はこの時代を生きる一人の人間として、哲学はこっちの方向に進んでいてもいいのではないかと、わりと真剣に思うのである……。
 

 メディアがメッセージを決定するというのは情報学の基本中の基本ですが、この時代に哲学の営みがどのようなものでありうるかという問いは、あらゆる前提を払いのけつつ検討してみる必要がありそうです。なお、「あなたの文芸誌観は、単に自分の文章を文芸誌に載せられないやっかみから来るのではないか」という意見に対しては、筆者は回答を断固として拒絶することをあらかじめ断っておくことにします。